第一楽章 二人が奏でるポリフォニー

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 夜は、ミラにとって研究に没頭していてもだれにも文句を言われない、自由気ままな時間帯だ。だからこそ、時間管理が疎かになって就寝が深夜になりがちであるし、小腹が空くと買い貯めてある菓子に手をつけてしまうので、食生活の面でも健康上は問題だらけだ。  それでもミラが寝る間を惜しんで作業するのは、もうあまり時間が残されていないのではないか、という不安に駆られるせいだった。〈音楽が堕落した〉と言われるようになって幾星霜。一人で焦ったところで生産性が上がるはずはないのだが、何かせずにはいられない。  ミラは自室に引きこもり、【A:muSe】から流れる楽曲の記録に邁進する。楽曲を聴き、音を聞き分け、記号に当てはめ、ノートに書き記す。地味で単調な作業だ。しかし、その成果としてできあがった一見不規則に並ぶ記号の羅列が、じつはひとつの楽曲を表現していて、それを解き明かせるのは現在自分一人だけという事実が、ミラの胸を熱くする。  ちょうど一曲をしあげたミラは、一度大きく伸びをしたあと、ページを繰ってノートを見返し悦に入っていた。  夜は静寂とともに、秘密の時間を連れてくる。  ヴー、ヴー。【CoMMuNE】が振動し、机の上でそれが音として伝わる。新着メッセージを知らせる音だ。【CoMMuNE】を手に取る。こんな時刻に連絡してくる知り合いはいないはずだが、とミラは訝った。  画面上でピカピカしているアイコンをタップして新着メッセージを表示させ、ミラは眉をひそめた。送信者欄が空白だったのだ。このメッセージ機能を利用するにはアカウント登録が必要なため、たとえ面識のない相手からのメッセージであっても送信者欄には何かした登録された名前が必ず載るはずだ。それが空白とはどういうことだろう?  次なる動揺がミラを襲う。メッセージが読めない。文字らしきものが並んでいるのは視認できるのに、言葉として認識しないのだ。ミラは背筋が寒くなるのを感じたが、ようよう気持ちを静めて観察してみると、読めないと思ったのは早とちりであった。どうやら万国共通言語で書かれているようだ。しかしそうとわかっても、わざわざ海の向こうから? とますます不信感は拭えない。  十数年ほど前に制定されたばかりのまだまだ若い万国共通言語は、高齢になるにしたがって認知度が低く、使用頻度もあまり高くない。しかし、ミラたちの世代には早くも義務教育として整備され、将来は世界的に使用されコミュニケーションの円滑化に貢献していくだろうと目されていた。短く単純な文章だったので、万国共通言語の成績が振るわないミラでも何とか読み取ることができた。   02:38 受信 これを読んでくれているであろうあなたへ このメッセージが届いているなら、それは運命です。どうか返信をください。それだけが私の望みです。    ミラは文面の怪しさに、こういう輩は相手にしないことがいちばん利口だ、と無視を即決した。【CoMMuNE】をベッドに放り出し、室内灯を消してベッドにもぐりこむ。眼鏡を外して枕元のケースに置くのはいちばん最後のルーティンだ。  灯りを消すと無音の闇が一気に襲いかかってくるように感じられ、外のほうがいっそ明るいのではないかと、ミラは常夜灯が等間隔に並ぶ中心街の夜景を眼裏に思い描いた。中心街付近は常夜灯の白い灯りに照らされ夜でも視界良好で、星屑のひかりはいつもうすぼやけている。ミラは満天の星空というものを知らない。いつか見てみたいものだ……そんなとりとめのないことをつらつら考えているうちに、意識はほどけていく。  ミラが寝静まったあと、【CoMMuNE】の画面が唐突に光って再び振動をはじめた。振動が止まったあとも、しばらく新規メッセージを告げる表示が出ていたが、やがてスリープ状態に入り、真っ黒な画面へと切り替わった。              第一楽章〈完〉
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