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この橋の上で、彼女の細い身体をこの腕に抱いたのは今朝のことだったのに。
こんなことになるなんて、あの時には予想もしていなかった。
俺は重いスーツケースを引きずりながら、夕暮れの町を歩いた。秋だというのに、シャツはすっかり汗を吸って背中に貼り付いている。
どうかしてるよな。
いつもの俺なら、一人の女のためにこんなに必死になったりしない。
しかも、彼女とは半日前に会ったばかりなのに。
明け方の橋の上で、じっと川の流れを見つめていた彼女に声をかけたのは、その儚げな横顔に何かを感じたからだ。
振り向いた彼女は、心細げに震えていて。風にはためく薄いワンピースはいかにも寒そうで、冷えた身体を思わず抱き寄せた。
それが全ての始まりだったんだ。
あの時、稜線をくっきりと浮かび上がらせた朝日に目を細めて、俺の腕の中で彼女は言った。
「この川……海につながっているのよね」
何気ない言葉だと思ったんだ。
まさかそれに意味があるなんて、それが彼女の願いを表しているなんて、考えもしなかった。
彼女に出会った橋を、一人で渡る。
思いつめたような目で川を見ていた彼女は、もういない。
俺たちが一緒になるにはこうするしかなかったんだと、推定40キロのスーツケースを引きずりながら改めて思う。
彼女が小柄で、まだよかった。
背中に回した腕が余白に戸惑うほどの、華奢な身体を思い出す。
細くしなやかな四肢。桃色に火照った肌に浮かんでは消える、宝石のような珠の汗。
その柔らかな肉に切っ尖を埋めたときの、背徳的な快感もーー
「お願い、あなたと一緒に……いきたい……」
涙を浮かべて見上げる彼女の懇願に、応える方法は一つしかなかった。
俺は彼女の抜け殻を詰め込んだスーツケースが立てる騒音とともに、海を目指してひたすら歩いた。
彼女との約束を守るために。
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