第十六連鎖 「アナタガココニイテホシイ」

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第十六連鎖 「アナタガココニイテホシイ」

心労による入院中の校長に次々ともたらされる悲報の数々。 肉体は元より、精神も完膚なきまでに叩き潰されてしまった。 もはや食事を取る元気も無く、流動食と点滴で生き延びているだけ。 もう限界を超えてから、どれ位の時間が過ぎていったのか…。 昨夜の消灯時間を過ぎてから、それは彼の前に姿を現し始めた。 灯りが消されて暗くなった個室部屋。 彼の足許に人影が朧気に現れたのであった。 シルエットだけではあったが、その禍々しさは室内に充満する。 彼は、その姿を見た瞬間に気絶する様に眠りに落ちた。 心がシャットダウンをしたのであろう。 目覚めてから校長は思い出していた。 あれは、自殺した担任の女性教師ではなかったか。 片腕の様に見えたが、彼女に違い無かった。 私を恨んでいるというのか…。 妻を失くしてからの彼は、何事に対しても情熱を失ってしまっていた。 学校の運営に関しても、教師達の処遇に関しても。 全てにおいて事なかれ主義で通して、自分自身の主義主張は捨てた。 校内でイジメが横行しているのは知っていたのだ。 だが教頭に任せて自分は出来るだけ関与しない様にしていた。 なによりPTA副会長の息子が関係しているなら、尚更である。 教師自身から相談を受けた時ですら、放っておけと指示していた。 それが、こんな事態を招いているなんて…。 その雪崩れの様に崩壊していく現実に全く追い付けない。 だから彼は病院へ逃げ込むという術を覚えた。 だが此処も、もう安全地帯ではなくなっている。 もう何処にも居場所が無くなってしまった…。 どうすれば良いのだ? 第一発見者の青年は、またもカーテン越しのパトランプに気付く。 カーテンを開いてみれば、先刻よりも近くで光っている。 自分の住んでいる棟の真下であった。 また何か事件が起こったのか…、また誰かが…。 彼は自分の死についてのみ考える様になってしまっていた。 それしか決着の付けようが無いのは分かっている。 だが自殺なんてするのは無理であった。 彼には覚悟が無い。 だから死が迎えに来るのを待っている。 パトカーから降りた警官は彼の住んでいる棟に入っていく。 もう団地に交番を建てた方が早いんじゃないのか? 軽口を叩く警官もいる位である。 団地の一棟の各々が大きな呪いのドミノと化した。 それが次々と連動して倒されてゆく。 学校も病院も倒されて潰れていっている。 建物それ自体は全く微動だにしていないにも関わらず。 住人や関わっている人達は薙ぎ倒されているのだ。 そしてそれはいつまで続くのか? 何処まで続くのか? 止まるのかさえ誰にも分かってはいない。 もちろん誰にも止められはしないのだ。 それはパニックを超えてエピデミックと化していた。 その同時多発的なエピデミックは、もはやパンデミックと化しつつある。 警官達は二手に分かれてエレベーターから降りた。 捜索願が出されていたピクとセンターの二人。 その二人の住居に警察から家宅捜索が入ったのである。 新たに発見された女生徒二人の自殺遺体。 それは違う棟に住む、同じ学校の女子生徒二人の心中か。 彼女の内の一人のスマホの最後の通信履歴、それがセンターだった。 それで直後の二人の自殺に関与していると思われたのである。 ピクの部屋に入った捜査員が、壁の絵に目を留めた。 集合写真を模したドット絵なのだが、猛烈に違和感を醸し出している。 数人の絵の目尻から、まるで血の様な紅い涙が描かれていた為に。 確認してみると、その絵のモデルは既に亡くなっている人達ばかり。 捜査員は本部に連絡し説明する。 ピクは連続自殺事件の需要参考人として指名手配に切り替えられた。 センターと共に足取りはおろか、何の情報も集まっていない。 マスコミも台風情報と並行して、この理解を超えた現象を本格的に報道。 余りにも多すぎる死者の報道に警察も識者達も困り果てていた。 少しの事例を無視すれば、学校で行われた事が関係しているのは明白。 集団予防接種の内容まで疑われて論議され始めた程である。 だが当然の様に、どの説も何の決め手も説得力も持ち合わせていない。 台風により休校は続いているものの、本当に再開出来るのか? マスコミ以上に生徒の保護者達は困惑を極めていた。 グループラインではデマや中傷が飛び交い始めている。 転校を仄めかす保護者も少なくはなかった。 それを含めて、地域限定の集団ヒステリーを指摘する者もいる。 まだ彼等には届いてはいないが、夜が明ければ悲報は更に増えていく。 死者の数も増える一方である。 そして誰も何も指摘する事も説明も出来ないだろう。 ただただ、その凶悪な事実の内容に翻弄されるのみである。 そして現在のニュース番組を支配している要素。 史上最大の大型台風と、史上最悪の連続自殺及び殺人事件。 それが明日には同じ地域で合流してしまう事になる。 台風は西日本から東海を荒らしまくって進路を関東へ向けた。 勢力は拡大し、その被害による死者数もうなぎ登りである。 だが、この地域に関してだけは台風よりも死者数が多い。 台風以上の何かが吹き荒れているのだ。 その猛威が重なって、地域住民を恐怖に叩き込んでいる。 ただ台風と違って何の対策も立てられないし、準備も出来ない。 次々と起こる凶行に対して畏怖し、恐れおののくだけである。 ネット上では台風と並んで一番騒がせているトピックとなった。 やはりデマや根拠のない情報の拡散が飛び交っている。 その地域取材にマスコミは台風の中、集まっていた。 夜が明ければ、台風も連続する悲劇も同時に取材出来るからである。 だがそれは、最大の悲劇への予告編でしかなかった。 警察もマスコミも地域住民も、その見込みが甘かったのである。 台風の脅威は事実史上最大であり、人々は戦慄しながら動向に注意を払う。 だがこの呪いのドミノ倒しの禍々しさは、それ以上であったのだ。 人々はその威力を嫌と言う程に知らされる事になる。 知るという能力が残っている人々と、命が残された人々だけだが。 もう直ぐ夜が更けて、やがて朝が来る。 夏休み最後の日が訪れるのだ。 嵐を連れて。 校長は例え呪い殺されたとしても、もう充分だという気がしていた。 私の人生は妻と共に終了しているのだから。 教師の望みが私の命であるならば、喜んで渡そうと思う。 出来るだけ穏便に命を奪って貰いたい。 テレビが設置されている喫茶コーナーでコーヒーを飲む。 ニュース番組では警察が記者会見を開いていた。 威嚇射撃による射殺事故からの警官の逃亡。 過剰防衛による一般市民の射殺と民間施設での籠城。 錯乱による威嚇射撃によっての射殺の生中継。 一般市民を射殺した挙句の拳銃自殺。 これ程の不祥事を連続して起こしてしまった原因と責任。 記者達も全体像を把握しきれておらず、会見は混乱。 混沌としたままニュース中継は終了した。 校長は看護師に消灯時間を促されて個室へと向かう。 最後に飲んだカップコーヒーは不満の残る味であった。 灯りが消されて暗くなった喫茶コーナー。 患者達が各々の病室へと戻っていったその後。 幾つもの朧げな人影がベンチに座っているのが見える。 彼等は部屋へと戻っていく校長の後ろ姿を見ていた。 その後に何も映っていないテレビを眺めていたのである。 人影の一つが立ち上がり、校長への病室へと向かった。 歩いている様な動作は見えない。 ただただ移動しているだけにしか見えなかった。 …ゆらり、…ゆらり。 校長がベッドに横たわって、暫くしてから灯りが消された。 部屋が暗くなると同時に、再びそれは姿を現す。 シルエットでしか確認出来ないが、やはり担任の彼女に違いない。 ただ昨夜の姿とは様子が変化していた事に気付いた。 両手が揃っていて禍々しさが消えている。 彼女ではないのか…、いや彼のよく知っている彼女であった。 暗いので見えているのかは定かではない。 だが校長はベッドの上に座り頭を深々と下げた。 土下座と言える程に。 涙がどんどん溢れて出て、嗚咽が繰り返された。 顔を上げて見てみれば、そこには誰の姿も見えなかったのである。 不思議と校長は安らかな気持ちで寝られそうであった。 もしかしたら彼は許されたのかも知れない、と思い始める。 彼は暫くぶりに睡眠の沼へと沈みかけていた。 …その時である。 彼の個室に侵入者が現れた。 それは病院の関係者であり、看護師ではない。 関係者は入院中だった女性徒の自殺を告げる。 「…!…。」 校長は絶句してしまった。 進行していく状況は、全く彼を許す気配さえ見せない。 今度こそ彼は、精神的な致命傷を負った。 物理的に死んでしまう前に、自分自身を楽にしてやりたい。 報せに来た関係者が去ると、再び病室には暗さだけが残った。 横たわる彼は、足許に佇む人影を認める。 シルエットだけではあるが、やはり担任の彼女。 見えてはいないが彼女に向かって、校長らしく頷いて見せた。 校長は起き上がりパジャマの上に背広だけを羽織った。 妻に見立てて貰ったお気に入りである。 内ポケットには楽しかった頃の二人の写真が入れてあるのだ。 最期に一通り眺めたかったのである。 彼の妻も元はと言えば教師であった。 この病院からなら彼の学校は目の前で、よく見えている。 最期に学校が見れる事も恵まれていると思っていた。 「こんな天気だけれど、屋上からの方がよく見えるだろう…。」 彼は意を決して部屋を出て階段の方へ向かって歩いて行った。 部屋を出る後ろ姿をシルエットが見送る。 それは彼が覚えている女性教師の姿そのままであった。 そしてその表情は彼に対しての哀しみを帯びている。 階段を上がり始めた時に、階下から物音が聴こえてくる。 何かが壁に当たっている様な音で、不快な響きがした。 しかし段々と遠ざかって小さくなっていったので気にならなくなった。 一体全体、何の音だろう? やがて階下の裏口の方でドアの開く音が聴こえてくる。 こんな天気の、こんな時間に何だろう? 色々と不思議に思いながらも階段を上っていった。 天国への階段なら良いな…。 屋上出入り口のドアを開けて外を見る。 通常なら電子ロックで開く事はないのだが。 屋上は雨は強めであったが、風は思った程ではなかった。 屋上から庭を見下ろすと、誰かが門に向かっていく。 どうやら停車してあるタクシーに乗り込む様だ。 彼が乗車して暫くしてから、猛スピードで走り去って行った。 校長は雨に濡れながら柵まで辿り着く。 その柵にもたれながら内ポケットの写真を取り出した。 そして一枚づつ眺め始めたのである。 妻との写真。 もちろん一番楽しかったのは新婚の頃であろう。 それは間違い無い。 だが彼女が急逝してしまうまでは、いつでも楽しかったのだ。 孤独がこんなに心を蝕むものだなんて全く想像も出来なかった。 せめて子供が出来てくれてさえいれば…。 妻と一緒に自分の人生は終わった、残りはオマケだ。 …その時である。 近くの交差点の方から大きな物音が鳴り響いた。 おそらく交通事故であろう。 見えていないが、大きな事故の様である。 現在は、何処もかしこも戦場の様だ。 常在戦場。 心が安まる事なんて在るのだろうか。 人間は不完全な生き物だ。 不完全な生き物が造れるのは、不完全な世界でしかない。 校長は再び残りの写真を眺め始めた。 自殺の続きを開始したのである。 妻の写真を見つめながら、もう一度だけ声が聞きたいと切に思った。 …その瞬間に妻の写真が喋り始めたのである。 「嬉シイ…。」 校長は写真を見たまま動けなくなってしまった。 確かに妻の声である、彼女の声を聞き間違える訳がないのだ。 写真の中の妻は微動だにしていない。 「アナタ…。」 その声に校長は写真から顔を上げた。 妻がそこに微笑んでいる。 柵の向こうに、立っているのである。 正確に言うならば、柵の向こうの空中に浮かんでいた。 「ぉま…え…。」 無意識の内に涙が溢れ出て止まらなくなっていた。 暖かい涙である。 彼女は出会った頃の若々しい姿をしていた。 若いころから清楚で清潔感を持っている。 一目惚れした頃の彼女に、彼は少し恥ずかしくなっていた。 「御苦労様デス…。」 それは学校から帰宅した彼への、彼女の労う口癖であった。 彼は止まらない涙を袖で拭って顔を上げた。 すると彼女は急逝してしまう少し前の妻に変わっている。 「また一緒になれたね…。」 「ハイ…。」 彼は柵を乗り越えて妻に近付いた。 こんな荒天なのに、まるで体温が感じられる程だ。 彼は彼女の手を握りしめた。 温かい。 彼女は彼の手を優しく握り返してくれた。 「うっ…うっ…うっ…。」 妻は懐かしい微笑みで校長の泣き顔を見つめる。 彼は嬉し涙を止められなくなっていた。 「アナタ…。」 そして校長は妻を、その手で抱きしめようとする。 だがそこに、彼女はいなくなっていた。 そのまま彼は屋上から落ちていく。 見上げたその刹那、優しく微笑んでいる妻の顔が一瞬だけ見えた。 校長は頭上の最愛の妻に逢いに降りていっているのだ。 加速を付けて。
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