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放課後、お鍋の材料をスーパーで買った帰りに不思議なおじいさんに出会った。
「風が冷たくて耳が痛い……」
北風が容赦なく冷えた体に吹きつける。
相澤先生がサッカー部の部活指導を終えて帰ってくるまでには、温かい鍋を用意しといてあげたい。
いつも通る公園の並木道のベンチに、そのおじいさんは腰を下ろしていた。
和装の作務衣のようなパジャマに雪駄という、なんとも寒そうな出で立ちだった。
この公園の近くには総合病院があって、患者さんが散歩がてらに訪れているところをよく見かける。
このおじいさんもきっと患者さんなんだろうけれど……
こんな寒い日にこんな薄着で散歩だなんて、風邪を引いてしまうんじゃないだろうか。
それに一人みたいだけど、大丈夫なのかな……
歩きながらも気になって見ていたらばっちりと目が合ってしまった。
「今日は鍋かね?」
おじいさんはしゃがれた声で私に尋ねてきた。
手に提げていたスーパーの袋から白ネギが飛び出ていたからそう思ったのだろう。
「はい…つくね鍋にしようかと思ってます。」
「ほほうっ。それは美味そうだ。」
白髪をオールバックにして、眉間に深く刻まれたシワが怖い印象を受けたのだけれど、笑うと両頬に可愛いえくぼが出来た。
私は、早く戻られた方が良いですよと言って、ぺこりとお辞儀をしてから足を進めた。
「お嬢さん、ひとつ質問しても宜しいかな?」
「……はい?なんでしょうか……?」
改まってなんだろう……
私が身構えると、おじいさんは持っていた杖に体重をかけて立ち上がった。
「あんたは今、幸せかい?」
えっ………?
そう聞かれて、真っ先に頭に浮かんだのは相澤先生だった。
気持ちがぼわっと温かくなる─────
「はいっ。とっても!」
満足そうに微笑んだおじいさんに再びお辞儀をして、その場をあとにした。
不思議なおじいさん……ちょっと強面だけど本物のサンタさんだったりして。
そんなことを考えながら後ろを振り向いてびっくりした。
そのおじいさんが私に向かって深々とお辞儀をしていたからだ。
結局、そのおじいさんは私が遠くの角を曲がり追えるまでずっと……頭を下げていたのだった─────
「単なる色ボケじじぃだったんじゃねえの?」
お鍋をつつきながらおじいさんのことを相澤先生に話したら、こんな答えが返ってきた。
見知らぬおじいさんになんてことを言うんだ。
幸せかいと聞かれて元気良くはいっと答えてしまったこととか、サンタかな?なんてメルヘンなことを思ってしまったことは黙っておこう…恥ずかしいから……
「なんかこのつくね、シャキシャキしてんな。」
「それは中に蓮根が入ってるからなんですよ。」
相澤先生はへーっと関心しながら、あっという間にお鍋を平らげてしまった。
いつも気持ちいいぐらいに食べてくれる。
「しっかし今日は寒いな。風呂入って温まってくるわ〜。」
窓の外を見るとチラチラと白い雪が舞っていた。
積もりそうな雪ではないけれど、もし積もったりしたらホワイトクリスマスだ。
街中キラキラとしたイルミネーションが輝いていて、歩いているだけで気分を盛り上げてくれる。
我が家のリビングのチェストラックの上にも、小さいけれどもクリスマスツリーが飾られていた。
クリスマスイヴまであと、三日──────
「わっ、やっちゃった!」
洗い物をしていた手が滑り、お皿を床に落として割ってしまった。
いざ目の前まで迫ってくると、緊張しちゃうな。
落ち着け落ち着け、私のハート……
気を取り直して片付けていると、お風呂場から相澤先生の悲鳴が聞こえてきた。
何事かと慌ててお風呂場に行くと、素っ裸の相澤先生がいた。
危なっ!見えちゃうところだった。
「なんで相澤先生裸なんですか?!」
「そりゃそうだろ!んなことより、なんで水なんだよっ?!」
へっ……水?
湯船に手を入れると冷たい水だった。
相澤先生…ガタガタと震えているけれど、確かめもせずにこの水風呂に浸かったんだ……
どうやら湯沸かし器が故障してしまったらしい。
「このタイミングで壊れるか?!さっぶ……風邪引くわ。」
「ちょっと待って下さいね。なんか温かい飲み物を……」
台所に行こうとした私を相澤先生が引き止めた。
「今日は湯船でゆっくり温まりたい。銭湯行くぞ。」
──────銭湯……?
マンションの近くには銭湯がある。
最近はスーパー銭湯と呼ばれるリゾート施設みたいなお洒落なものが人気だが、そこは昔からある古びた銭湯だった。
相澤先生は何度か来たことがあるらしいのだが、私は銭湯自体初めてだった。
高い天井に、壁に大きく描かれた富士山のペンキ絵。
昔ドラマで見た銭湯のイメージそのままだ。
体を思いっきり伸ばせるくらい大きなタイル張りの湯船は開放的で、地下水から直にくみ上げたという軟水はとても肌触りが良かった。
「どうだった、初めての銭湯?」
女湯から出ると相澤先生が下足室で待ってくれていた。
湯上りで火照った相澤先生の色気のある顔。
毎日家で見ているはずなのに、外でだとなんだか直視出来ない……
「凄く…気持ち良かったです。」
「そりゃ良かった。もっとこっちおいで。」
湯冷めしないようにと、相澤先生は体をぴったりとくっつけてきた。
お風呂につかってる時より体が熱くなっているのはきっと気のせいなんかじゃない。
相澤先生にのぼせそうだ。
考えてみれば、こんな風に二人並んで歩くのなんて初めてかも知れない。
お互い仕事が忙しくて付き合ってからもデートらしいことをしたことはなかった。
私達は順番がなにもかもデタラメだった。
知り合って二週間、単なる同僚だったのに一緒に住み始めて毎日同じ布団で寝るんだから……
そんな関係を半年もなんて有り得ないよね。
でも今は恋人同士だ。
当たり前のようにそばにいて、寒くなってきたねと言い合えるほどの同じ時を過ごしている。
なにも特別でなくったっていい。
何気ないこの毎日が、幸せなんだ。
「マキマキ、なにニヤついてんの?」
「べっつに〜っ。またこうやって二人で銭湯に行きたいなあって思っただけですよ。」
相澤先生はふ〜んと言いながら足を止め、私のまだ湿った髪の毛先に触れると顔を近付けてきた。
「……俺も。」
冷たい風で冷えてしまった唇に、相澤先生の温もりがとても心地よかった。
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