旦那様はおヘタレですの

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旦那様はおヘタレですの

御桜町夫婦は、池袋駅から徒歩5分程の場所に建設された高級ホテルで行われる、生垣記念館建設パーティーに、いつものごとく遅刻して出席していた。 大きな広間の床は美しく磨けあげられた大理石で、天井に下げられたシャンデリアはスワロフスキーで飾られ眩いまでに輝いている。 まさに社交の場。 給仕が持つ盆の上で輝くシャンパンと、添えられたチーズの盛り合わせがなんとも美味そうである。 「……一曲、踊っていただけませんか」 美しい濃紺のドレスを身に着け、着飾る華憐な女性が宗政を誘う。いつもの光景だ。 女性の後ろには、顔を赤らめた女性達が声を密かに落としてこちらを見つめている。 「ええ、もちろんです。愛らしいお嬢さん」 柔和な笑みを浮かべて誘いを受ける宗政に、周りにいた女性達は黄色い悲鳴をあげた。 しかし、宗政の胸中はこうである。 (……Oh, my god. なんということだ。今日こそは椿姫ちゃんと踊ろうと思ってたのに。ああ、俺のばかあ……。これじゃあ、また愛する椿姫ちゃんの機嫌を損ねて……) 一方で、宗政の言う''愛する椿姫ちゃん''は、いつものとおり『壁の花』状態であった。 しかし、大変美しい椿姫をそのままにしておく人間は、椿姫の性格を理解している人間だけで、一夜で成り上がったような『成金』の人間の中でも社交界に縁遠い者は、なにも知らずに、花に蝶が…いや、蜂が吸い寄せられるがごとくに、椿姫に声を掛ける。 しかし結果は''No'' 「わたくし、あなたのような人とはご遠慮願いますわ」 椿姫は相手の目を見てしっかりとそう答えた。彼女にとって、夫以外の人間は皆等しく''あなたのような人''なのだ。 だが、心の奥底にある上流階級へのコンプレックスを燻られていた彼らは彼女の言葉をそうとは受け取らない。故に赤面して怒鳴り散らし、その場を後にする。次いでに一生、社交の場に戻ってこられなくなる(宗政が社会的に抹殺するため) 椿姫のプライドは高く、並みの男性では歯がたたない。それでも椿姫を誘う男が後を断たないのは、その愛らしい顔立ちに似合わぬ言動に痛めつけられたいという変態が、社交界には多いからというものだった。(ちなみに、その中の1人が宗政であるが) 宗政は椿姫を誘う男性のように表立って椿姫をワルツには誘わない。 つまりその点において、宗政は他の男よりもヘタレなのである。 (もうっ……どうして宗政様はわたくしをお誘いにならないの?…そんなに今日のドレスが似合っていないのかしら…宗政様からの贈り物だというから、嬉しかったのに) 今日の椿姫の装いは春を想起させる愛らしい桃色のシフォンドレスだった。袖の部分に沿うレースは繊細な紋様を描き、胸元を彩るルビーは最高品質のもので、濁りがない。 まさに春の妖精。 そんな装いをした美しい椿姫を気に入らない男など、世界中のどこにもいない。 (ああ……かわいい、愛らしい、なんて美しい。誰にも見せたくないなあ…。ああ、でもこんなにも愛らしい妻を見せびらかしてしまいたい。どうしたらいいんだ。どうしたら) 椿姫を連れ立って日本での社交の場に行くために、ロシアから急遽屋敷へ戻った宗政は、着飾った椿姫を見て憤死する寸前だった。 ロシアの寒さが一転、宗政の心には春が訪れた。 ロシアへ行ったのは、ある意味、社交の場を広げる理由もあったが、この日のためにあつらえたドレスを直接贈るの恥ずかしくて、わざわざ海外へ飛び、なにかと理由をつけて椿姫がドレスを受け取るのを待って帰国したのである。 少々、面倒くさいヘタレだ。 『旦那様……ドレスありがとうございます』 素直に感謝の言葉を述べる椿姫に、宗政は鼻血をこらえながらなんとか言葉を紡ぐ。 『……妻を着飾らせるのが夫の務めだからな』 (……ああああ、椿姫ちゃん落ち込んでる。ごめんね、ごめんね椿姫ちゃん) 椿姫は、目に見えて落ち込んだ。この屋敷のメイド達に甘やかされている椿姫は、自らが褒められることを当然としているから誉められないことに慣れていない。だが、宗政に誉められずに落ち込むだけのか弱い女でもなかった。 『でもわたくし、もっと宝石のついたドレスが良かったですわ』 ぷいっとそっぽを向く椿姫に宗政は内心、大いに同意した。 (うんうん。そうだよね椿姫ちゃん、もっと宝石つけないとねえ。こんな1つじゃあ、椿姫ちゃんの愛らしさに負けてかすんじゃうよねえ。次からはもっといっぱい宝石つけるから今日は我慢してね) 数千万円の宝石になんてことを、と突っ込んでやりたいが、この男にとって椿姫の言葉をは絶対であるし、この世界の誰よりも大切な存在なのである。 『まったく贅沢だね……あきれてものも言え……ない、よ』 しかし心の中とは違い、外面に添えられた己の口は勝手に冷たい言葉を吐き出してしまう。宗政は心の中で唾棄して、項垂れた。 (……嗚呼) あきらかに傷つき、涙を瞳いっぱいに溜める椿姫。実際、宗政の知る椿姫は心が強いわけではない。幼い頃から、蝶よ花よと育てられ、冷たい言葉を投げかけられることのなかった椿姫は、社交界という魑魅魍魎の世界で、自分の身を守ろうとして言葉に毒を含ませるようになった。 一流の令嬢としての教養は、本来であれば専門教師から学ぶはずだったが、娘に甘い椿姫の両親ならびに、祖父と祖母は「好きなことだけをしなさい」と言って椿姫の望むことだけをさせた。 その結果、純真無垢で愛されることを当然とした我儘で傲慢なお姫様が誕生したというわけである。 『べ、別に、旦那様に……気にいってもらおうなんて、思って……いないですわ』 必死に涙をせき止めようとする椿姫に、宗政はもはや言葉を紡げなくなってしまった。 (嗚呼、嗚呼、なんということだ!椿姫ちゃんを泣かせるなんて、自分が自分で許せない!) 『……ほら、泣くな。すまなかった』 宗政には、椿姫をそっと抱き締め、謝ることが精一杯だった。 (本当は、思いっきり抱き締めて、キスをして、そのまま寝室へ……。嗚呼、だめだ。初夜の椿姫ちゃんを思い出したら興奮が……) 脳内で妄想を繰り広げる宗政は、ヘタレなだけではなく変態だった。 しかし、そんなことを知る由もない世間は、この男を社交界の皇帝として崇めているのだから不思議なものである。世界に通ずる美形の中の美形。そしてカリスマ性を持つ男。それが御桜町宗政であった。 『……さあ、もういいだろう。そろそろ行くぞ』 妄想の中で繰り広げられる椿姫のあられもない姿に、宗政は限界だった。すぐさま椿姫の体を己から離すと、後ろを向いて熱くなった身体をなんとか収えるために、心中で『心頭滅却、心頭滅却』と唱え始める。 『あ…旦那様』 悲し気な声を出す椿姫に宗政は心が締め付けられ、身が捩れそうになった。 (あああぁぁぁぁぁああ、椿姫ちゃん、本当はあんなことやこんなこともしたいけれど、駄目だ。このままでは俺のあれがああなって、こうなってしまう) 脳内で暴れまくる自らの理性に何とか鞭打って、妄想を収めようとする宗政であった。 しかしそんな宗政の胸中を知らぬ椿姫は宗政の服の裾を無造作に掴み上目遣いで一言。 『宗政様……おかえりなさい』 (……あ、だめだ) 宗政の理性が完全にOUTになった瞬間であった。 宗政様……旦那様、ではなく。宗政様。 宗政の頭でその一言がエコーする。 『え、あの、宗政様』 宗政におもむろに抱き上げられた椿姫は、驚きに声をあげる。二人の様子を見守っていた使用人達も驚きに目を見開くが、さすがは名門家に仕える者達である。 動揺を一瞬で消し去り、一切の感情を排除した。 『君が悪い』 (ああ、かわいい。椿姫ちゃん。かわいい。ああ、かわいい。椿姫ちゃん。食べちゃいたい。かわいい。ああ、かわいい。食べちゃいたい。かわいい) 宗政は羽のように軽い椿姫を抱き上げて、寝室へ向かった。 この時、宗政の頭の中からは、今日行く社交パーティーのことなど吹き飛んでいた。 元々、世界中に顔か通じる宗政にとって今回のパーティーなどいかなくともなんら問題はないのだが、最近、海外での社交が増えているため、椿姫に着物を贈ることしかできずにヤキモキしていた宗政である。 そんな中で行われる日本で最上級の社交パーティー。宗政は、この機会にずっと送りたかった椿姫のために作らせたドレスに惜しみなく金を注いだ。 つまり、宗政にとって今日のパーティーなどは、椿姫にドレスを贈るための口実のようなものなのだ。遅れたとしてもなんの問題もない。 むしろ遅れていったほうが登場時に目立つから、椿姫を存分に見せびらかすことが出来る。頭の中の唯一冷静な部分でそんな算段をつけた宗政は、足取り軽く寝室へと向かった。 ───毎回、パーティーにこの夫婦が遅れるのは、着飾った妻に我慢できなくなった夫が妻と寝室にこもるからという単純明快なものというわけである。
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