旦那様と怖い本

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旦那様と怖い本

椿姫は、本が好きである。 ロマンス・SF・ミステリー・ファンタジーなど様々なジャンルのものを好み、時間があれば本を読んでいる。 だから、椿姫は阿呆ではなくむしろ、英邁だ。 美しい言葉の羅列と耽美な世界を好む。いわゆる本の虫なのだ。 しかし、そんな椿姫でも苦手な本のジャンルがある。その中でも特に苦手なのが、ホラーだ。 椿姫が、宗政の婚約者となってまだ幾年も経っていない頃、宗政の書斎に幾つかのホラー小説があるのを見て、少し興味を持ったことがあり『最初のページだけ、最初のページ』だけと自らに言い聞かせながら読んでみると、導入部分がなんとも面白く、そのまま読み進めてしまうという過ちを犯したことがあった。 その夜、椿姫は眠れなくなり、当時婚約者であった宗政に抱き抱えられながら眠りについてしまい、翌朝大騒ぎになったことがあった。 婚前交渉はこの御桜町や春野などの由緒正しい家ではあまりよくないとされている。そんな中で、翌朝主の寝室に入ってみれば、服は纏っているものの異常なまでに密着した男女を見つけてしまい、長年春野の家に使えてた人間は腰を抜かした。 その後、宗政が双方の親に説明して、なんとか事は収まったがしばらくお互いの家に行来することを控えるように双方お達しされた。 椿姫の我が儘により1週間でそのお達しが帳消しにされたのは言うまでもなかったが。 それからおよそ7年。椿姫はいまだにホラーが苦手である。 「……茂子。これはなにかしら」 「これは……旦那様の欲望のあられですかしら」 「…は?意味が分からないわ」 茂子と椿姫の目の前には、宗政が世界中から集めたホラージャンルの本が積み重なっていた。金縁の美しい装飾のものもあれば、古ぼけた正に魔導書のように怪しげな表紙のもの、あるいは思わずモザイクをかけたくなるような猥褻な表紙のものもある。 そこからただよう空気は尋常ではなく禍禍しいなにかが漂っているような気さえした。 実は、茂子はその禍禍しいものの正体も、なぜこんなにもホラージャンルの本が宗政の書斎に積み重なっているかも全て知っていた。 (…旦那様は阿呆でいらっしゃいますわ) 茂子は内心ため息をついた。 『なあ、茂子さん。椿姫ちゃんはまだホラー小説って苦手だったりするかい?』 『ええ、ええ、お読みになっているところはお見受けしませんよ』 あの時の宗政はなにか良からぬことをかんがえていたに違いない。 それを聞いた後、いそいそと上田になにかを伝えて、上機嫌に仕事へ出掛けていった所を茂子は目撃している。 「宗政様は、そんなにもわたくしのことがお嫌いなのかしら」 涙を浮かべながら悲しげに呟く椿姫に、茂子は内心で宗政を叱咤した。 (まったく、奥様に勘違いされたんじゃあ、本末転倒ではないですか) 宗政と椿姫は昔に起こった悲劇の1件以来、ごくたまにしか寝室を共にしていない。そのごくたまにというもの、先日のように、可憐な衣装を見にまとった椿姫に宗政が我慢できなくなった場合がほとんどである。 宗政は椿姫に飢えていた。 茂子と上田は知っている。毎夜、毎夜、椿姫の写真を枕元に置いては『今日こそ夢の中で椿姫ちゃんとあんなことやこんなことやそんなことができますように』と破廉恥極まりないことを願って我が主が眠りについていることを。 「奥様、気になされますな。宗政様はホラー小説を平気でお読みになられますから、おはまりになる時期もございましょう」 もっともらしい理由をつけて椿姫を説得する茂子だが、椿姫はホラー小説の山をじっと睨み付けて動かない。 「あ、あの、奥様?」 「ええ、ええ、そうでしょうとも。私への嫌がらせに違いありませんわ」 「え、いや、あのう、奥様」 「茂子見ておきなさい。わたくしはもう以前のわたくしではありませんわ」 なにやら決意を固めた様子で、頬をペチペチと叩いた椿姫は、山積みにされたホラー小説の中から1つを手にとって書斎を辞して自身の部屋へと向かった。 「茂子、わたくしの部屋に紅茶と昼間に上田が焼いていたマドレーヌを用意なさい。その後、絶対にわたくしの部屋には入ってこないで頂戴。本を読むのに集中したいの。よろしくて?」 なにやら頭に不安がよぎる茂子だが、主の命令を上田その他使用人に伝えるために階下へと降り、調理場へ向かい、紅茶とマドレーヌを、磨きあげられた食器にうつして、再度主の部屋へと向かう。 すると、すでに窓際におかれたロココ調のソファに、文字の羅列を読み初めた主がゆったりとした姿勢で座っていた。 ……周りに大きな熊のぬいぐるみと、小さな耳がへたっとなったウサギのぬいぐるみを両脇に置いて。 「奥様、こちらに置いておきますので、冷めないうちにお召し上がりくださいませね」 茂子は、椿姫の目の前に置かれたローテーブルの上にティーセットを置いて、そっと主の部屋を辞した。 あれから4時間後、椿姫はいまだに自室に籠っており、出てくる気配がない。心配になった茂子と上田が、部屋の前で何度か椿姫を呼ぶが返事はなかった。主の部屋のなかを除くのはなんとも無礼であるし、命令を破るわけにもいかない。一体どうしたものかと考えているとちょうど階下が騒がしくなった。 どうやら、この屋敷の主が帰宅したようである。 急いで、階下へ降りる茂子と上田。他の使用人から事情を聞いたのであろう宗政は、そんな茂子と上田を無視してエントランスホールの眼前に広がる赤絨毯の敷かれた階段を登った。 1番奥の部屋が椿姫の私室だから、宗政はその長い足をゆったりと椿姫の私室の方へ向けて歩く。 そうしてたどり着いた先に構える大扉を叩くと、やはり使用人達の言うとおり、椿姫の声は返ってこなかった。 静まり返る廊下に、しかし宗政の胸中はこうである。 (えええ!?ど、どどどどどうしよう!椿姫ちゃん一体中でなにしてるのお?……開けてもいいかな?……いいよね?……だって、この屋敷の主だもんね?僕) ……なんとも騒がしいこと限りなかった。 宗政は、自分の中でのたうち回るもう一人の自分との会話をしながら努めて冷静を装った。 「……はいるぞ」 重厚感のある扉を緊張の面持ちで開く。 すると、薄暗い部屋の中、窓際のソファで大きな熊のぬいぐるみにしがみつく椿姫の姿が見えた。 顔はぬいぐるみによって隠されていて見ることができない。 (どうしたのかな、椿姫ちゃん。使用人達は、4時間も籠っているとしか言わなかったから……なにかあったのかな) 心底不思議に思っていると、人間の気配に気づいた椿姫がそっと顔を上げた。 そして宗政は、その顔を見て戦慄する。 「ど、どどどどどどどどうしたの!?椿姫ちゃん!!」 思わず、宗政の心の声がそのまま出てしまった。 「うっ……ひっく…うぅ…きゅぅ」 涙を瞳いっぱいにためて嗚咽をもらす椿姫はさながら捨てられた子猫のようだった。喉がきゅぅきゅぅとなるのは宗政が昔から知る椿姫の泣きかたの特徴で、宗政はその愛しい泣きかたに切なくなるばかり。 「……昔から、変わらないよね椿姫ちゃん」 宗政は、椿姫に泣かれるとすこぶる弱い。 大切なことであるから二度言うが、すこぶる弱い。 あの件は、未だに二人に深い溝を残しているが、それでも宗政は、泣いている椿姫を放っておけるほど強くはなかった。 「きゅぅ……ぅ」 「一時休戦……しようか。椿姫ちゃん。ほら、おいで」 「ぅ……ぅ?」 「うんうん、いいよ?ほら、おいで?」 椿姫が泣くとき、椿姫の言葉を理解できるのは昔から宗政だけだった。 過去、椿姫は滅多なことでは泣かなかったが、宗政が傍にいる間は、良く泣き、良く甘え、良く笑っていた。今は感情が少し乏しいようだが、こういう泣き方は変わらない。宗政はそれが嬉しかった。 「きゅ……っぅ」 「もう、どうしてホラー苦手なのに読んだりしたの?椿姫ちゃん」 「ぅぅ、……ぅ」 「あぁ、別に書斎に入ったことは怒ってないよ。もう、そんなに泣かないのお」 宗政は、ソファの足元に落ちている一冊の本を見て、全てを察した。 (ああ、これ読んじゃったんだあ。んんー、椿姫ちゃんと一緒に眠りたいがために用意したものだけど、いざ椿姫ちゃんを目の前にすると苦しむ姿見たくないし、渡せなかったんだよねえ) 「きゅぅ……」 「ん?んん、いいよ。今日は一緒に寝ようねえ」 (うんうん、まあ、いっかあ。椿姫ちゃんと一緒に眠れる幸せを噛み締めよおっと♪) 宗政は、鼻歌を歌い出したい気分だった。 宗政の胸は、張り裂けんばかりに歓喜し、心の中ではミュージカルが始まり、脳内では粋なJAZZが流れていた。 そんな宗政を知るよしもない椿姫は、もう一生、ホラー小説など読まないと心の中ね固く誓う。 ちなみに、椿姫の誤解は後日、宗政がきちんと解いた。 めでたしめでたし。
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