切ない決断

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切ない決断

その後、園慈によって麗花は藤の間に通された。 ゆっくりと、中に入るとすぐさま『なにをしに来た』と厳しい声が飛んでくる。もちろんその声は利史のものだ。 『家を追い出された俺を笑いに来たか』 久しぶりに見る利史の顔はひどくやつれていた。端正だった顔は見る影もなく、悲しくとも力強かった瞳の光は消え失せ、底知れぬ闇が広がっていた。 『ご無事だったのですね』 やっと出た声はかすれていて、音になっていたかすら分からない。 しかし利史にはきちんと聞こえていたようで、『なんだ、生きていたら何か悪いのか』と皮肉気な口調で答えが返ってきた。 その言葉を聞いた途端、麗花の中でなにかが決壊する音がした。荒い波音がたつようなその音は麗花の中にあった強い自制心をえぐりとり、鋭利な形で麗花の感情を揺さぶった。 『悪いわけが……っないではないですか!』 瞳から流れる涙をこらえることができず、泣く麗花の顔を呆然と見つめる利史の顔を睨みつけ、胸の内に流れる激情をむりやり押さえつけるが、体に流れる血が沸騰し、血脈がドクンドクンと音を鳴らす。 『どうして、泣くんだ』 利史は、困ったような顔をした。本当に、麗花の泣く理由が分からないのだろう。 『どうして?どうしてでしょうね。わたくしにもわかりませんわ。…どうして、こんな女ったらしで、どうしようもない人を好きになってしまったのか。…わたくしにだって分かりませんわよっ』 藤の間の入り口で立ったまま麗花は泣いた。泣いて、泣いて。そのまま、麗花が泣き止むまで、利史は何も言わず、部屋を出ていきもせず、ただ麗花が先に紡ぐ言葉を待っていた。 『落ち着いたなら、座れ。麗花』 しばらくして、麗花の涙が枯れ果てると、利史は麗花に声を掛けた。 久しぶりに、麗花の名を呼ぶ利史の声に、麗花の胸は甘やかに鳴る。どうしようもなく単純な自分に、麗花は内心で苦笑を漏らした。 『…俺は、お前の気持ちには答えられないんだ』 利史の言葉は苦し気だった。まるで麗花を好きになれたらどれほどいいだろうと切実な願いが込められているかのようだ。 『…まだ、その女性のことが好きなのですか?』 『ああ。…家を追い出された時、彼女が俺の肩書きを見ていただけだと分かっても、それでもまだ好きだと思う。・・・愚かだとおもうか?』 利史の質問に、麗花は即座に首をふった。 『そんなこと、思いませんわ。わたくしだって利史様にふられましたけれど、こうして会いにきてしまったのですから』 麗花の答えに利史は『すまない』とつぶやいた。切実な想いが込められた声音に麗花の心は締め付けられる。 『誤解なさらないで、これは私の意思です。だれにも、それこそ利史様にも謝罪をされるいわれはございません』 麗花がいいきると、利史は苦笑して『お前は強いな』と言った。 呆れたような声音は、麗花と利史が初めて出会った時、麗花が道に迷ったと知った時の声音によく似ていた。 (やっぱり…わたくしはこの人のことが好き) 『私が強いと、そうお思いになるのなら、私を利用なさって』 気がついた時には、麗花はそう口走っていた。今から麗花が利史にする提案は、麗花の心を救わない。おそらく、麗花を一生苦しめるものとなるであろう。 しかし麗花には、今目の前で苦しんでいる利史を救うことが、なによりも大切なことのように思ったし、彼の心が救われることが自分の幸せであると考えられた。 麗花は小さなハンドバックに入れて置いた一枚の紙と、春野家当主夫人から送られてきた分厚い封筒を取り出した。 『これは…』 『これは、利史様のお母様から送られてきたお金でございます。本当は“息子がご迷惑をおかけしました。どうかこれからも息子とお付き合いいただければ幸いですわ”と書かれたメッセージカードもありましたけれど、怒りのあまり燃やしてしまいましたの』 『…あの人のやりそうなことだな』 『それと、これ。利史様とお付き合いを始めた時に勢い余って書いてしまった婚姻届ですわ。……私の名前が書かれています』 あまりにも衝撃的なことを宣う麗花に、利史は呆然として言葉を紡ぐことができないようだ。 『本当は、捨ててしまいたかったのですけれど、どうしてもできませんでしたの。あなたに会った後に、これをどうするか決めようと思って持ってきましたけれど。今、使い道を思いつきましたわ』 『……どういうことだ』 頭の混乱が収まらないのか、利史は困惑の表情を浮かべてただただ、目の前に差し出された婚姻届を見つめる。 『私と結婚し、秋草の名をどうぞ存分にお使いください。そうすれば、あなたは春野家の当主になれるはずです』 それは、麗花と利史が最も嫌う“型にはめられた婚姻”だった。利史は自由を求めている。家の名に縛られることのない自由な恋愛と、母親の愛情とは全く形の違う愛情を。 だから麗花の言うような婚姻は、利史が最も嫌いな“不自由”を象徴するものだ。それを承知で麗花はこの提案を利史にしている。 『母に、言われたからか』 『いいえ。先ほどもいいましたけれど、ここまで来たのは私の意思です。あなたのお母様は関係ありません』 『俺が嫌だといったらどうする』 利史の顔に強い苛立ちが宿った。 『いい加減、筋をお通しください』 『なに?』 『あなたは今、お母様から逃れようともがいていらっしゃる。そうして起こした行動がすべて水の泡となって、こうしてまたお母様から逃れられないでいる』 麗花の言葉は利史の逆鱗に掠るほどに危うい言葉だった。二人のいる藤の間が異様な気配に包まれる。それは麗花のものではない。利史のものだ。利史の心に踏み入ることを許されていない麗花が立ち入ってはならない境界線を踏む。 利史の心から爆発的な何かが競り上がってきて、口から荒々しい言葉が出てこようとした────その時
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