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『あなたの意思は、もう一度彼女に会うこと。……そうですね?』
踏み込まれた境界線から突如として重みが消えた。
麗花が一歩引いたのだ。
とられた距離に、利史は一瞬寂しさを覚えた。
『ならば、筋をお通しくださいませ。彼女に会うためなら、なんでもすると仰ってください。お母様の望む通りに一時なることを耐えてでも、彼女に会いたいと』
麗花のその言葉に、利史の心に穏やかで、透き通るような風が吹く。
冷たいけれど緩やかに流れるその風は、やがて利史の中で燃え滾っていた激情を撫でて鎮めていった。
『……君を、利用することになるんだぞ』
『わたくしだって…あなたを利用するではありませんか。あなたと結婚することが、わたくしの願いです。ですからそのことを気に病む必要は微塵もございませんわ』
麗花の紡いだ言葉は、半分が真実で半分が嘘だった。確かに麗花は利史と結婚することを望んでいる。しかしそれはこんな形でではない。もっと愛情に満ち満ちた幸せな恋人同士になって結婚する。“あなたと結婚することがわたくしの願い”なのではない。“あなたと『想いあって』結婚することがわたくしの願い”なのだ。
『…そうか』
どこか納得しきれていないような声を出す利史に、麗花は言葉を続けた。
『私との婚姻が成立したら直ぐにでも春野家にお戻りになり、正式な当主とお成りください。そうすれば、あなたのお母様も、当主の座を退いたあなたのお父様も、私と離婚した後に彼女を迎えに行ったとしても、その時あなたはもう春野家の当主です。誰もなにも言えますまい』
つまり、麗花と結婚して春野家の周囲を納得させ、当主となった暁には麗花と離婚して堂々と恋した人を迎えにいく…。ということか
利史にとって、それほどまでにありがたい申し出はないが、それではあまりにも目の前に座る麗花が不憫だ。
こんなにも自分を思いやってくれる女性に、利史は出会ったことがない。
────君を愛せたら
そう思うのに、なぜか心が、未だに記憶に残る彼女に向けられる。
そんな自分に、利史は少しの嫌悪感を覚えた。
『さあ、そうと決まればさっそくこの婚姻届にサインをしてください。それと、このお金はあなたにお返ししますわ。夫人に伝えてください。……わたくしはわたくしの意思でしか動かないと』
夫人は、分かっていたのだろう。麗花が利史に本気で恋をしていることに。だから、麗花が利史に会いに行くことはある程度分かっていたのかもしれない。
しかし、ここからだ。ここからは、夫人の思い通りにはさせない。
おそらく夫人は麗花が利史にこんな提案を持ちかけているとは露ほども思っていまい。
もし、この計画がうまくいけば、利史はやっと母親からの呪縛から解き放たれる。
その時、麗花は利史の横にはいないけれど、それでも麗花にとって、利史がどこかで笑っていてくれることが大層嬉しいことのように思えるのだ。
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