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枯れゆく
『……ごめんなさい。わたくしのせいであなたに辛い思いをさせてしまいました』
春野の屋敷に麗花が移り住んで1か月が経った時の話である。
引きこもる時秋に、麗花は優しく語りかけてきた。もちろん部屋には鍵がかかっていたために、麗花が時秋のパーソナルスペースを侵すことはないのだが、その優しい声音には真情が籠っていて、時秋は無性に泣きたくなった。
『部屋を開けてくださらない?わたくし、まだ時秋様にきちんとご挨拶できていませんわ』
恋焦がれた女性に『時秋様』と呼ばれ、時秋の心は高鳴った。社交界では高嶺の花とうたわれた麗花が、ドア1枚を隔てた向こう側にいる。そう考えると、寝台で布団をかぶっていじけている自分が妙に恥ずかしく思えて、時秋は寝台から這い上がり、のそのそと立ち上がって、そっと扉を開けた。
「…っ」
するとそこには、思った通り、いや、それ以上に神々しい美貌があって、時秋の胸は大きな音をたてて再度鳴った。全身の血が沸き立つような感覚がして、やがて麗花がエプロンを身に着けていることに気が付き、時秋は戸惑いの表情を浮かべる。こうして扉を開いたのはいいものの、これからどうすれば良いのか。まさか、この美しい女性を自分の荒れ果てた部屋に招くわけにもいくまい。かといって、このまま部屋の入り口に彼女を立たせているのも気が引ける。様々な考えを頭で巡らせる時秋に麗花は、『もしよろしければ、厨房にいらしてください。クッキーを焼きましたの』と柔らかく微笑んだ。
『クッキー?』
『はい、クッキーです。わたくしが焼きましたのよ。でも、茂子以外、誰も食べてくれませんの。』
しょんぼりと肩をおとす麗花に、時秋はすぐさま利史の顔を思い浮かべた。
『あの……僕じゃなくて、兄さんに食べてもらったら?』
時秋が言うと、麗花は少し眉を下げて『あの人は甘いものがお嫌いですもの』と答えた。
そういえば、利史は甘いものが苦手だったかと思って、自分が幼い頃、よく兄から甘いものをもらっていたことを思い出した。
『もしかして……わたくしの作るクッキーを食べるのはお嫌かしら?』
悲し気な声に、時秋ははっと我に返って、即座に首を横にふった。嫌なわけがない。あの憧れの麗花が作ったクッキーが食べられるのだ。まさか自分は一生分の運を使い果たしてしまったのではないかと思うほど、この時の時秋は天にも上るような気持ちで、『良かった』と嬉しそうに微笑む麗花を見つめていた。そうして、ふわふわと漂う雲に乗るような気持ちで時秋が厨房で見たものは、時秋の想像していたクッキーを絶する何か得たいの知れない異形のものだった。
黒い。とにかく黒い。そして、毒々しい。
これをクッキーと知らずに、これは何かと問われたら、時秋は迷いもせずに“墨”と答えるだろう。そして、その墨の上にのせられた異様なピンク色のものは、間違いなく“毒”と答える。
『何故か皆、これを食べてはくれませんの。茂子は食べてくれたのですけれど、これを口にほおりこんだ途端、どこかへ行ってしまって』
茂子と言うのは、おそらく彼女が家から連れてきたものの名だろう。そういえば、麗花がこの屋敷へ来て、両親に挨拶に来た時、ずっと後ろに控えていたものが一人いたはずだ。おそらくその人物が茂子という名なのだろう。
『麗花さんってあんまり料理、得意じゃないんだ』
小さな声で呟いたつもりが、どうやら麗花の耳にはばっちりと届いていたらしい。麗花は眉間に皺を寄せて時秋に詰め寄った。
『食べてもいないのに、そんなことを言うなんてあんまりですわ』
案外、彼女は気が強いのかもしれないと悟った時秋は、自分の中にあった完璧な麗花のイメージに亀裂が入るのを感じていた。しかし悪い気はしない。むしろ心地よいものだ。完璧なように見えた彼女も、実は自分と同じで、できないことがある人間なのだと分かって、時秋はなんだか妙にうれしくなった。
『これ…自分で食べてみたんですか?』
時秋が聞くと、麗花は首を横にふった。
『いいえ?でも、きちんとレシピの通りにしましたもの。おいしいはずですわ』
胸をはってそう言い切る麗花に、時秋は少し反発したいような思いがこみ上げてつい『じゃあ、食べてみてくださいよ』と口走る。すると麗花は『絶対おいしいに決まっています』と言って、小さく可憐な唇にその墨のようなものをあてがい、ぱくりと口にほおり込んだ。
『…っ……けほっ』
案の定、せき込みながら苦悶の表情を浮かべる麗花に、時秋はおかしくなってついつい笑い声をあげてしまう。すると麗花がすかさず『なっ……なにが、おかしいのっ…ですか』と苦し気に問いかけてくる。
『ふふっ……ううん、ごめんなさい。でも、思った通り、美味しくないでしょう?』
時秋が聞くと、麗花はしぶしぶとした様子で頷いた。
『こんなにまずいだなんて。……う、ごめんなさい』
肩をおとして落ち込む麗花に、時秋は我に返って、慌てた。
『あ、ち、違うんです!別に、麗花さんを落ち込ませようとしたわけじゃなくて……』
『分かっていますわ』
ふわりとほほ笑む麗花に、時秋は赤面した。麗花の微笑が眩しい。自分の兄は常にこんなにも優しく神々しい微笑を向けられているのか。そう考えると羨ましいような、憎らしいようなそんな気がした。
『でも……どうしましょう。今度、お友達にクッキーを作ろうと思っていましたのに。これでは間に合いませんわ』
『お友達?』
『ええ。大学時代からのお友達なのですけれど、これまで生きてきた中でお料理を一度もしたことがないと言ったら、これを渡されましたの』
そう言って、麗花がエプロンのポケットから取り出したのは、愛らしい花柄の描かれたメモにこれまた可愛らしい文字で書かれた、簡単なクッキーのレシピだった。
『…で、これを作って渡そうとしたんですか?』
『ええ』
『なるほど、あと何日後なんです?』
『明日ですわ』
『えぇぇ……それは、無理な気が』
『で、でも約束してしまいましたの。一度した約束を破ることなんて私にはできませんわ』
必死の形相で詰め寄ってくる麗花に、時秋はさてどうしたものかと考えた。
『あの……よろしければですけど、僕が教えましょうか?』
時秋にはこのくらいのことしか思いつかず、麗花にそう提案した。すると麗花は目を輝かせて時秋の両手を、その華奢な手からは想像もつかないほど強い力で握った。
『まあ!時秋様は、お料理がお出来になりますの!』
『え……はい。まあ、これくらいなら』
『すごいですわ!どうか教えてくださいませ!』
興奮を隠しきれないように詰め寄ってくる麗花からは花の香りがした。強く、それでいて輝くような香り、まさしく麗花を体現したような香りだ。
『わ、わかりましたから。離してください』
『あら。ごめんなさい』
麗花は素直に謝って、綺麗に礼をした。
『それじゃあ、まずは、まだ使っていない食器を出しましょう』
『はいっ!』
このことがきっかけとなって、麗花と時秋は互いを友と呼ぶまでの関係になっていった。
彼らがその友情を作り上げるのに、およそ2カ月もかからなかったのである。しかし、麗花が時秋と仲良くなる一方で、麗花と利史の関係はそれに反比例するように冷えていった。それから麗花が春野家へ嫁いで、5カ月。この時から1か月後、利史は正式に春野家当主の座を受け継ぐ運びとなった。
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