酒か、それとも

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酒か、それとも

麗花が何度扉を叩いても、書斎にいるはずの利史から返答の言葉が返ってこない。 それ故に心配になって、麗花がそっと利史の書斎の扉を開くと、そこにはぐったりとしたように眠りこけている利史が目に入った。 心なしか顔が赤い。 (最近は、毎日お疲れのようだったから) 麗花は、手に持っていた茉莉花茶を書斎にいくつかあるテーブルの一つに置いた。 (こんなところで眠っておられたら、風邪をひいてしまうわ・・・でも、起こすのも忍びないし) 麗花は、自らの羽織っていた薄手のショールを肩から外して、眠りこける利史にそっとかけてやろうとしたのだが。 ふと、利史の眠る椅子の傍にあったテーブルを見ると、そこには一本のワインがあった。そっと手に取ってみるが、その瓶にほとんど重さはない。 利史は酒に強いが、それでもこのままでは二日酔い間違いなしだ。 麗花は、少し躊躇いながらも手に持ったショールを己の肩にかけ直して、利史の肩を優しくゆすった。 『利史様…起きてくださいませ。このままではお身体が』 麗花はそこまで言うと、利史は『うっ…』とうめき声を上げた。 先ほどから思っていたことであるが、利史の顔が赤い。先ほどは酒のせいだと思っていたのだが、利史の様子をつぶさに観察すれば、どこか苦し気な様子で呼吸を荒くしている。 麗花がそっと利史の額に手をあてると、思った通り熱かった。しかしそれが酒のせいなのか、それとも本当に身体から発せられた不調を表す熱なのか分からない。 (どちらにしても、まずは寝室へ運ばないと) 麗花は、春野家の家令を呼んですぐさま利史を寝室へと運ばせた。 寝室へと運び込まれた利史を見て家令は『お風邪をめされたのかもしれません。とにかく奥様は風邪がうつっては大変ですので────』と言いかけた。 しかし麗花は家令にその言葉の先を紡ぐことを許さなかった。 『別に、うつってもかまいません。看病ならしたことがございます』 『しかし────』 『こうしている間にも利史様の熱が上がってしまいますわ。・・・冷えた水とタオル、体温計と、生姜湯に蜂蜜を入れてもってきなさい。』 麗花がすばやく支持を出すと、家令は驚いたように目を見開き、やがて頷いた。 『かしこまりました』 恭しく礼をした家令は、そのまま利史の寝室を後にした。 (わたくしは・・・利史様が疲れていることに、気がつけなかった) 麗花は、逃げていた。目を背けたい現実から、逃げていた。残り後一カ月で、利史は正式な当主の座につく。そしてそれから間もなくして麗花と利史は離婚することになるであろう。もちろん麗花には、利史と離婚した後の計画があった。このまま利史と麗花が僅かの間で離婚したことが知れれば、双方ともに悪い評判が立つし、なにより麗花の祖父が春野を許しはしない。 しかし麗花は、雄一郎に『わたくしが、この結婚を提案しましたの。お互い良い経験になるでしょうからって』と説明するつもりでいた。麗花からの提案となれば、雄一郎も文句は言えまい。少々穴のあきすぎる計画ではあるし、周りにも多大なる影響を与える計画だが、それでも麗花は、利史と離婚した後に秋草に生じるであろう問題は、全て自分の責任として、一生をかけて解決していくことを決めていた。もちろん利史も同じ覚悟を持っていたはずである。 しかし、どうしたことだろう。離れがたい。利史の傍を離れがたいのだ。 『ごめんなさい。…利史様』 麗花の囁く声に利史は何も答えなかった。 ただ呻き声を上げる利史の額に、麗花がそっと手を添えようとした────その時 扉の叩かれる音がした。麗花が『入りなさい』と命じると麗花が用意するようにと命じたものが家令と、数人のメイドによって寝室に運び込まれる。 『麗花様用意が整いました。なにかありましたらお呼びください』 家令が深く礼をとると、麗花は頷き、そのまま利史に向き直った。家令達が寝室を出る音がして、麗花は嘆息した。 寝台のよこに置かれたサイドテーブルに、運びこまれたものを並べ、まずは冷たい水に浸したタオルを絞る。次に用意された水差しからグラスへと水を注ぎ込んだ。 (まずはお水を飲んでもらわなくては・・・) 『利史様……一度、起きてくださいませ』 起こすのは忍びなかったが、まずは体内に残る酒を薄めなくては。 『れ…い、か』 うっすらと目を開けて、麗花を見つめる利史の瞳はやはりどこか熱っぽい。 『少し身体を起こしてくださいませ。……お手伝いしますから』 麗花が利史の背中を支えてやると、利史はぎこちなく動いて寝台から身体を起こした。 『はい、お水を……利史様?』 麗花は、利史の唇に水の入ったグラスをあてがおうとした。 しかし────。 『……え!…っと、としふ……んっ』 利史が麗花から受け渡されたグラスを拒むと、麗花の腰をいきなり引き寄せた。 そして熱のこもった唇が、麗花の唇に食らいつく。それは優しい接吻ではない。それは麗かが体験したことのない、激情をのせた苦しいものだ。麗花は思わずその手に掴んでいたグラスを絨毯の引かれた床の上に落してしまった。 『…れい、か…っん』 譫言のように麗花の名を呼ぶ利史に、麗花は困惑した。 そして、利史の身体に未だに酒の残っていることを思い出して、麗花は抱き寄せられた身体を無理やり利史から離した。 (流されては……いけない) 麗花の心は奮い立っていた。今ここで流されれば、きっと麗花は流されたことを一生後悔する。 だから、いまだ熱の残る唇のことは忘れて、麗花は意味を介することのできない視線を寄越す利史を無視して、床に落としてしまったグラスをサイドテーブルの上において、もう一つ別のグラスを用意し、水を注いで利史の唇にあてがった。 『水を、お飲みください』 麗花が言うと、利史は何も言わずに唇にあてがわれたグラスに口をつけ水を飲み始める。 麗花が優しく利史の背を撫でてやると、利史は安心したような顔をしてもう一度、寝台に横になった。 『…今は、ゆっくりお休みになって』 麗花が言葉を掛けると、利史は麗花の方をわずかに見て『すまない』と唇を動かした。そして無意識なのだろうか。麗花の手を握って離そうとしない。いつもは威風堂々とした態度をとる利史の、まるで幼子のような姿に麗花はふと愛おしさを覚えて、利史に向けて柔らかな微笑みを向けた。 『わたくしはここにおりますから、まずはお眠りください』 すると利史はその優しい声音に即されるようにして、そのまま、ゆっくりと瞼を閉じてしまった。 (どうしてキスなんか) 麗花は深呼吸をした。 今のは、ただの事故。自分はなにも見ていないし、何も聞いていない。そう言い聞かせて、麗花は安らかに眠る利史の顔を覗きこんだ。 (明日になったら……きっと忘れていらっしゃるわ) 少し残念なような気がしたが、覚えていない方が双方のためにもなる。甘い記憶など作ってはならないのだから。
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