毒と密

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毒と密

心に落ちた石は波紋を呼び起こして、静かな音を立てる。 「恋」というには、あまりにも濃い。「愛」というには、熟しきっていない。けれど、確かに己の胸にある感情だ。一体、人はこの感情を何と呼ぶのか。愛でも恋でもない。ただ一瞬、麗花と初めて目が会った瞬間に感じたような衝撃と同じ。 (……麗花) 自分は遅すぎたのかもしれない。その名もない感情に気づくことを。いや、遅すぎたのだ。もう少し早く気づけば、そして考えていれば、間に合ったのかもしれない。麗花をここまで追い詰めなかったかもしれない。全ては自分の未熟さが招いたことで、もう何も変わらないかもしれない。いや、変わらない可能性の方が高い。けれどこのまま、何もせずにいて、この腕の中にいる温もりが離れて行ってしまうのは、それこそ自分には耐え難い。 「あの、利史様。もう、大丈夫でございます。おろしてくださいませ」 「もう少し待って」 麗花を抱きしめる力を強くすると、儚く、柔らかい感触が直に伝わってくる。それに甘い、とても甘い蜜のような香りがする。まるで自分が蝶や蜂にでもなったような気分にさせられるような。 「あ、あの?」 困惑気味にこちらを覗きこんでくる麗花に、利史は何も答えず、そして集まって来た使用人の目も気にせず、そのまま麗花の首筋に唇を押し当て、舌を這わせて、滴る蜜を吸い上げるようにして、舐め上げた。利史の中に眠っていた獰猛な衝動によって、欲は一層増し、いずれ「執着」という醜いものに成り果てる。けれど、利史の心はその衝動を止められない。たとえ麗花の心が徐々に離れていったのだとしても。身勝手な自分は、決してそれを許しはしない。 「とっ……としふみ様」 麗花の口から洩れる声は、あまりにも愛らしい。おもわず喉で笑うと、麗花はこちらを睨みつけて、「何をなさるのですか!」と利史の肩を叩く。身を捩るのをやめたのは、ここが階段であると、思いだしたからだろう。 しかし、利史には、ここが階段であろうと関係なかった。 「えっ……ん!」 階段に麗花を座らせてから、彼女の唇を奪う。 麗花とは何度も唇を合わせている。けれど、過去一度として、このように甘美な口づけをしたことなどない。柔い口づけに、利史はしばし我を忘れた。麗花は、か細い腕で少しの抵抗を試みるが、利史にとって、その抵抗は痛くもかゆくもない。 「んっ……と、とし、ふみ様。待って」 麗花の唇からもれる甘い吐息に酔いしれながら、利史は麗花の唇を貪った。 そしてしばらくの間、利史は乾いていた己の心を蜜で潤し、心を満たした。あまりにも甘美なその蜜は、今まで飲んできた毒のような蜜ではないことを悟って、歓喜に心が震える。 (甘い、美味しい) 階段に敷かれた鮮血の色をしたカーペットに、麗花の豊かな黒髪が広がる様は優美で美しく、そして官能的だ。 このまま、どこまでも、どこまでも溺れてしまいたい。そして、堕ちてしまいたい。それは、麗花ではない、彼女と恋をした時にも感じたこと。 そして、突如として湧き上がってきた麗花へのそれは、過去と同様に、いずれ「執着」へと変わる。真っ青な果実が熟れて色を濃くするように。そして後は、堕ちるだけ。麗花は未だに清らかで美しい。堕ちるにはあまりにも真っ新な果実。けれどそれも時間の問題。未だ麗花が利史のことを愛しているのならば、遅くはない。利史を愛した時点で、毒は麗花の中に仕込まれている。後はそれを、麗花の全身に行き渡らせればいい。 (君はもう許してくれないかもしれない。だが) それでもいい。麗花が、誰と恋することを望んだとしても、利史はこれから一生、麗花を縛りつけておくつもりだ。今度は絶対に逃げられないようにして。今度こそ得られた、誰にも縛られない衝動を押し通すために。 だから。 「すまない、麗花」 口づけの合間に、麗花の唇へと流しこんだ言葉は、そのまま麗花の身体へとおちてゆく。そしておちた言葉はいずれ毒となって、麗花の心を犯すだろう。 歪みすぎた愛情、気づくのが遅すぎた恋。 これから始まる、麗花との生活は、きっと甘美で、官能的で、いずれまた自分を堕落させるものに違いない。 不穏な予感を感じながら、利史はそのまま鮮血の色に散らばる髪をかき乱すように、麗花を抱きしめた。
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