毒蜘蛛と蝶

1/1
前へ
/129ページ
次へ

毒蜘蛛と蝶

「ねえ…最近の利史様のご様子、おかしいと思わない?」 「やっぱり、そう思うわよね…まるで以前の利史様に戻られてしまったようで」 「麗花様も一向に利史様のお部屋から出てこられないし。ご当主様も気が気ではないご様子だったわ」 「そりゃあ、そうよねえ。なんといってもあの秋草の家のご令嬢で、しかもあの頑固者で知られる秋草雄一郎が孫の中で一際目をかけている方だもの。利史様が以前のようになってしまわれて、愛想をつかされてしまったら大変なことになってしまうわよ」 使用人の女達が話す声は、利史の部屋の窓でまどろむ麗花にまで届いていた。薔薇の香りが充満するこの部屋で、もう何日も、ろくに日光を浴びていない。 別段、腕を縛られるとか、目を布で覆われるとか、そのようなことはされていないが、まるで心が縛られているような感覚に麗花は囚われていた。あの日以来、利史の様子がおかしい。いや正確には、麗花が時秋と友人になり始めた頃から、少しおかしくなり始めていたのかもしれない。そのことに気がつくことができなかったのは、お互いにあった溝が深まりすぎたせいだろう。最近、利史から向けられる視線の中には、もちろん麗花が望んだ感情もあった。でも、何かが違う。けれど、違うと言えるほどの理由がない。この拭えない不安の正体が分からない。 利史の中の何かが変わったことは確かだ。けれどそのせいで、麗花は利史に囲われている。物理的にも精神的にも。麗花が利史の部屋を出ようとすれば、利史は「どこへ行くんだ」と尋ねてくる。逆に麗花が「お仕事はどうなさったんですか」と問えば、利史は微笑みを浮かべて「君より大切な仕事はないよ」と言う。その言葉を聞いて喜ぶほど、麗花は馬鹿ではない。それくらい分かっているはずなのに、利史は壊れたようにほほえんで、まるで蜘蛛の巣にかかった蝶を絡めとるようにして、麗花を捉えて離さない。 「そこ、おしゃべりしないで、すぐに持ち場へ戻りなさい。」 「も、申し訳ありません!」 「すぐに戻ります!」 声につられて視線を下に向けると、先ほどまでおしゃべりをしていた使用人達が蜘蛛の子をちらすようにして、その場からいなくなる様子が目に入った。 「…っけほ…う」 ここ最近、麗花の調子はすこぶる悪くなっていた。元々、東京には向かない身体だ。そろそろ、療養するために高知に戻らなくてはいけない。さもなければ、自分の身体は壊れてしまうだろう。しかし、利史が当主になるまではここにいなければならない。利史が当主になるところを見届けるまでは遠い所に行くわけにはいかない。 (でも…そろそろ限界だわ) 少しくらいなら許されるかもしれない。ほんの数日帰ることができれば、少しは回復するだろうから。 「茂子…茂子」 「はい、お呼びでしょうか。麗花様」 扉の外で待機していた茂子が、利史の部屋へ入ってくる。すると茂子はあからさまに顔を歪ませて、窓辺に佇む麗花の肩をそっと撫でた。 「ここ最近、お顔の色がお悪いようでございます」 「あら、やっぱり。お前にはお見通しなのね」 「もちろんでございます。もう何年、お嬢様にお仕えしているとお思いになっているのですか」 茂子の言葉の中に感じられるのは、麗花への愛情と、懐かしみ。茂子は麗花を心から慕っているし、大切にしたいと思っている。麗花が心から愛した人と幸せになって欲しいとも思っている。けれど、それは決してこんな形ではない。 「麗花様…一度、高知に戻りましょう。ここにいては、いずれ麗花様のお身体が壊れてしまいます。東京の空気はもちろんですが、この部屋の中はおぞましいほどの毒気を孕んでいるようで、茂子は恐ろしゅうございます」 毒気といっても、本当の毒ではない。ただ、甘い酔いをかんじさせるような香りのことを、茂子は言っているのだろう。 「部屋中に飾られた薔薇の香りを毒気というなんて…茂子は薔薇が嫌いだったかしら」 「そうではございません。…この空間に漂う空気のことを言っているのです。まるで、神経を犯す毒を孕んでいるようで。」 「大丈夫。私はまだ正常よ」 「…利史様のこのような仕打ちは異常であらせられます。ここ最近では麗花様が部屋から出ることを許してくださいませんし、麗花様が他の人間とお話することさえお厭いになられます。今日は、大事な挨拶があるとかで、ようやっと屋敷を出られただけで、すぐに戻って参られます。無礼きわまりないことを申し上げますが、利史様はあまりにも身勝手です。…このようなことが続けば、せっかく麗花様が嫁いでこられたというのに、利史様は以前のようになってしまわれて、いずれまだ春野家を追い出されることになりかねませんわ」 茂子の言うことは、麗花も懸念していることだ。別に、利史が春野家を追い出されたとして、麗花は利史と共に追い出される覚悟ではある。けれど、このままではいけない。そのことは麗花にも分かっていた。今の利史はすっかり昔の利史に戻ってしまっている。いや、本当はずっと…変わっていなかったのかもしれない。麗花が変わったと勘違いしていただけで。だって麗花は、ここ数ヵ月、利史と向き合うことを放棄していたのだから。そしてその結果、利史は麗花に執着して、周りが見えなくなってしまった。他の人間の目には、麗花が蜘蛛の巣に絡めとられた哀れな蝶に見えるだろう。しかし実際、蜘蛛の巣に絡めとられているのは、利史自身だ。網に絡めとられた蝶を貪り喰いながら、己の足元に、その網が食い込んでいることに気がつかずにいる。 (…そろそろ、行動を起こさないと) 麗花は決して弱い蝶ではないから。綺麗な羽を、いつまでも毒に浸すわけにはいかない。
/129ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1595人が本棚に入れています
本棚に追加