過保護な旦那様Ⅰ

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過保護な旦那様Ⅰ

今日の陽気は晴れ。しかし初春であるためまだ気温は低く、肌寒い日が続く今日この頃。 椿姫はいつものように、穏やかな日中、青空の下、薔薇の咲き誇る庭園の東屋でお気に入りの本を読み、過ごしていた。 用意された白木のテーブルには蜂蜜がたっぷりかかったスコーンと、いまだに湯気をたてながら中で美しい花が開くガラスポットが用意され、水彩画の施されたティーカップの中には金木犀の花が亜麻色の茶の中で浮かんでいた。美しい蔓草文様の描かれた椅子にはそれらのものが似合う愛らしい淑女が座っている。彼女は眠気と戦いながら、薄眼を開いて羅列する文字と向き合い、春の陽気を感じさせる薄く繊細なレースのカーディガンをそよがせていた。 すると突然、初春を告げる風が遠い山の乾いた空気を運び込んだ。すると彼女の纏うレースがふわりと宙に舞い上がる。 「くしゅんっ……」 寒さのためか小さなくしゃみをした彼女は、目が少し覚めたのか、また本と向き合い始め、羅列する文字との闘いを再開した。 一方その頃、別の戦いが屋敷の中では繰り広げられていた。 「大変でございます!奥様がくしゃみを召されました!」 くしゃみを召されるという言葉が正しいかどうかはさておき、屋敷の中では、椿姫がくしゃみをしたいう、たったそれだけのことが使用人達の間に嵐を巻き起こしていた。 「なんということだ!……早く奥様を屋敷の中へ」 「それが……そう申し上げたのですが、お聞き入れくださらないのです」 「……ひとまず、主様にお伝えしなくては」 そういって、長年御桜町の家に仕えきた上田は、緊急用の携帯をならした。ちなみに赤いスマホが緊急用、黒のスマホがビジネス用で、シャンパンゴールドのスマホがプライベート用である。 『どうした』 上田が名乗る前に前のめりに『どうした』というのは、もちろん上田の主である御桜町 宗政である。 「奥様のことで至急……」 『なに。どうしたの。椿姫ちゃ……妻になにかあったのか』 上田は、宗政の本性をしっているから、椿姫のことを『椿姫ちゃん』と呼ぶことも知っている。おそらく今、宗政の前には誰か他の人間がいるのだろう。それでも宗政が、電話を取るのは一重に赤いスマホが、椿姫専用のスマホだからである。 「はい。実は朝食をとり終わり、奥様は庭の東屋で本をお読みになっていたのですが、しばらくして冷えてきたのでしょう。くしゃみをお召しになりまして……」 なんとも丁寧な口調だが、言いたいことは、椿姫がくしゃみをしたということである。 「使用人達は何をしているのかな。まだ初春だっていうのに、妻を外に出すとは」 宗政の声が一層低くなるのを感じて、上田は一瞬息を飲むが、長年宗政に仕えてきた老人は、使用人を慮って主に意見する。 「旦那様、どうか使用人達を叱らないでやってください。彼女らは奥様をお止していました。しかし如何せん、今日は茂子殿がいらっしゃいません」 茂子は、椿姫の生まれた時から仕えているメイドである。彼女は唯一、この屋敷で椿姫を叱ることのできる使用人であった。が、今日は生憎、友人の結婚式に参加するために屋敷を辞していた。 『それでも、妻にくしゃみをさせていい理由にはならないよ』 『そのことに関しては、後に全責任を私が負いますので、今は指示を仰ぎたく』 使用人想いの上田は、怒る主をなんとか抑えて今、問題となっていることに関して主人の指示を仰ごうとする。 『帰る』 「は?……え、いや旦那様、ご指示を」 『ーーーー』 しかし上田の主は、指示を出すことなく、『帰る』という衝撃的な言葉を残し、通話を切ってしまった。 上田の耳元には規則正しく空しい電子音が鳴るのみで、電話の向こう側に主の声はもう聞こえない。 その頃、電話を切った宗政は…。 「…君、もう下がりなさい」 電話の後、今までは上機嫌に話していた宗政の声音が一気に下がったことに驚いた週刊記者は、声を出すことができなかった。 「聞こえなかったか。下がれと言ったんだ」 冷めた視線を向けられた記者は、すぐさま立ち上がり震える足を抑えて一目散に応接間から立ち去った。 それと同じタイミングで、宗政の第二秘書である芹沢が応接間の扉を開きながら、逃げ帰る記者に驚く様子もなく呆れた口調で宗政に声を掛ける。 「まったく、また、あなたと奥様の不仲説でも聞かれましたか?……あのような取材は受ける必要もないと申し上げたではないですか」 「……椿姫ちゃんがくしゃみをした。だから、帰る」 秘書である芹沢は、宗政がヘッドハンティングした優秀な人材であり、その才を見出した本人だから、宗政は芹沢に一目の信頼を置いていた。そして御桜町家当主・宗政の本性を知る数少ない人間の内の一人でもあった。 「……なにを小学生みたいなことを仰っているのですか。あなたに見てもらわなければならない書類がまだ山程あるのですよ」 極めて冷静に答える芹沢に、宗政は駄々をこねる。 「嫌だ。……椿姫ちゃんが病気になるかもしれないんだよ?心配だよね?ね?」 「もうすぐ40にもなろうという人間が駄々を捏ねないでください。そんなに心配ならこの書類の山をとっとと仕上げて、とっとと帰ればよろしいではないですか」 芹沢は鋭利な瞳を隠す銀フレームの眼鏡の蔓を抑えながら書類の山を見やる。 「……せりちゃんのケチ。嫌い」 「嫌いで結構です。私は別にあなたに好かれようとして仕事をしているわけではありませんから。さあさあ。早く仕事を仕上げてください。私の方から医者を手配しておきますから」 「帝都大学付属病院の内科医藤宮先生か、北見先生を送ってね。男の医者をよんだら許さないから」 不貞腐れていた顔を元に戻して恐ろしく鋭い視線を投げかけてくるボスに、芹沢は慣れたように対応する。 「そのように仰ると思いまして、椿姫様がいつも風邪を召されるこの時期は、両名ともの予定を把握しておりますので安心なさってください」 「わあお、さすがせりちゃん。俺が見込んだだけのことはあるよね」 「お褒めに預かり光栄の痛みでございます」 皮肉たっぷりの言葉にも丁寧に対応する芹沢を見やりながら宗政は、どの通路を辿って家に帰るかの算段をつけていた。 そして1時間後、芹沢の怒りの声がフロント受付まで聞こえてきたというのは、本当の事だ。これはこの時期恒例行事である。 さて、芹沢が怒りの絶叫を上げる中、宗政はというと表参道の通りを出て、あらかじめ個人契約をしている駐車場に止めておいた自家用車に乗り込み、成城に居を構える御桜町本家へと向かう。 (待っててね。椿姫ちゃん。今年こそは君に風邪を引かせたりしないから) ────約40分後。 御桜町家専用の駐車場に車を止め、車の管理者に鍵を託すと、宗政は屋敷へと急いだ。車で帰ってくるなり急いで立ち去る宗政に、新しい管理人は大層驚いたていたが、宗政が屋敷の門前へ行くとそこにはすでに、屋敷の使用人頭である上田とメイド長代理である聖子が深く頭を下げていた。 「「おかえりなさいませ。」」 「妻はどこだ」 「奥方様は、薔薇の庭園に」 上田が申し訳なさそうにつぶやくと、宗政はさの横で頭を下げている茂子の代理を務めている聖子を睨む。 「私がここへ向かう時間の間になぜ、妻を屋敷へ入れなかったのだ」 下げた頭の頂点から痛いほどの視線を浴びた聖子は、額に汗をかきながら極めて冷静に事情を説明しようと努める。 「申し訳ございません。旦那様。何度も屋敷の中でお過ごしになるよう申し上げたのですが……」 「……暖炉は?」 「椿姫様の部屋の暖炉でしたら用意はできております」 焦った様子の聖子を庇うように上田が答える。 「そう、ならいい……庭園へ向かう。芹沢に連絡をいれておけ、上田」 「かしこまりました」 「お前は妻が風邪をひかないよう、部屋の中を温めておくこと。それとホットミルクを」 「は、はい。かしこまりました。旦那様」 急いで持ち場へと戻る上田と聖子を尻目に、宗政は庭園へと急ぎ足を向けた。 椿姫は、昔から身体が弱い。とはいえ外に出るだけで風邪をひくほどではないのだが、以前に、宗政が椿姫に対してしてしまった愚行が、宗政をここまで過敏する原因でもあった。それ故、宗政以下この屋敷の使用人達は、冬や初春の間はあまり椿姫を外へ出そうとしない。外へ出すとしても室内から暖炉の温かさが届くテラスが大抵で、今日のように椿姫が庭園へ出ることは非常に珍しい。 (……もう二度と、椿姫ちゃんに寒いおもいをさせたくない) 宗政は遠く苦い経験を思い出そうとしていた。 自らがまだ、近くにある大切な愛に気が付かずにいた頃をのことを────。
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