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「下ろしてくれ」
彼は、私にそう言った。
毎月あるはずのものが無くなって、薬局で買った妊娠検査薬は、私の中に命が宿ったことを示していた。
産婦人科を受診して、その事実は確かなものとして認定される。
医師の、「おめでとうございます」という言葉は、私には嬉しさ3分の1、できちゃったんだという思い3分の1、不安残り3分の1な思いで届いた。
同棲している彼氏が大学から帰ってきて、結果を伝える。
喜んでくれるだろうか?
そんな少しの期待と不安を心の中で抱えながら、相手の顔色を覗う。
だが彼の顔には、困惑しか浮かばなかった。
「今は困る。まだ学生だし、これから研修医としてやっていかなくちゃいけないし・・・・・・だから悪い、下ろしてくれ」
期待は、打ち砕かれた。
彼が言いたいのは、自分の準備が出来ていないし、結婚もまだなのに出来ちゃった婚なんて世間の体裁が悪いから下ろしてくれと、そんな身勝手な思いが溢れていた。
避妊もせずにやることをやれば、出来るかもしれないなんてことは、分かり切ってたはずなのに。
「責任取るから」なんてカッコいいこと言って私を抱いたその約束は、「下ろしてくれ」という命を殺す選択をしたことで、責任を果たした。まるで、判断してやったんだと言わんばかりに。
実に身勝手で無責任で、人の気持ちを踏みにじる判断だ。それを今の状況のせいにして、仕方ないだろとその顔が言っている。
「研修終わったら必ず責任取って結婚するから、だから、今回は諦めてくれ」
身勝手な選択をしたその口で、再び信用ならない約束をする。
「俺達まだ若いんだからさ、数年後だってすぐ出来るよ。もっと一人前の社会人になって自立してからさ、ちゃんと迎えたいんだ」
だから、今回は下ろせよ。そう、心の声が聞こえた気がした。
「・・・・・・その時に迎える命は、この子じゃないよ?」
ぼそりと言うと、彼は驚いたように目を見開いてから、あろうことか微笑んだ。
「俺達が望めば、戻って来てくれるさ」
これから医者になろうという人の言葉じゃない。人の命を預かる仕事をしようとする人の言葉では、決してない。
「私、殺す選択なんて出来ない」
「産むつもりか?俺、認知しないぞ」
「認知しなくたって、今はDNA調べて貰えば、誰の子供か認定は出来るでしょ」
「その時に俺が、提供すると思ってんのかよ。馬鹿じゃねぇの?」
私の中で、何かがプツンと切れた。
「分かった、もういい」
立ち上がって、寝室へと向かう。
カバンに必需品と、当面必要な衣類を詰めた。
「どこ行くつもりだよ」
「どこでもいいでしょ?」
「いいわけねぇだろ。考え直せよ」
「そっちがね」
カバンを手に立ち上がると、戸口を塞ぐように彼が立っている。
「どいて」
「考え直すまでどかねぇ」
「何で私が考え直さなきゃいけないわけ?私は殺す選択はしたくないって言ってんじゃん」
「2か月目だろ?ソレはまだ、人間じゃねぇんだよ。だから殺すって表現には当たらねぇ。だから中絶だって認められてんだ」
法律上、3ヶ月未満は人間として扱われない。中絶しても、役所へ”死亡届”を提出する必要もない。母子手帳が発行されていなければ、なおのこと。
私の頭では、言い返す言葉が浮かばない。法律を出されると、困る。反論するために口にする言葉は、単なる感情論だろと馬鹿にされるに決まっている。
私は無言で、彼の体を押しのけるように強行突破を試みた。
「待てよ!!」
胸倉を掴まれて、室内へ投げ飛ばされる。背中をチェストで強かに打ったかと思ったら、下腹部に激痛が走った。
「痛っ・・・・・・」
両手でお腹を抱え込んで、その場に胎児のように丸まる。
「おい」
息をするのもやっとの激痛。肺まで届いていないんじゃなかろうかと思うような浅い呼吸をしながら、悲鳴にも似た声を上げて痛みを訴える。
そして私は救急車で運ばれて、宿った大切な命は痛みと共に、流れていった。
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