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今日は朝から晴れていて、冬にしては暖かい。俺は父親が運転する車に乗り、温泉街の旅館や居酒屋に酒を配達して回った。シーズンということで観光客も多く、酒の需要もかなりあった。
「人手があると、やっぱり早いな。お前、このまま帰るか?」
父親が聞いてきた。まだ十四時だ。この温泉街からなら、歩いて帰れないこともない。
「いや、少しぶらぶらするかな」
以前にも何度か、配達を手伝ってから、途中で離脱することがあった。
「じゃ、これバイト代な。無駄遣いするなよ」
「サンキュ」
何枚かの紙幣を受け取り、車を降りた。温泉街で食べ歩きをするのが好きで、よくこのあたりを歩き回る。こうなることを予想して、昼食はとっていない。
車が走り去る。
人混みの中を泳ぐようにしながら俺は、煎餅や揚げ物などを食べ、ぶらぶらと歩いた。
テイクアウトのコーヒーショップの行列に並びながら、スマホをいじっているときだった。
通りを挟んで向かいの土産物屋から、話し声が聞こえた。
驚いて顔を上げる。
店先で、若い女の子が二人、キーホルダーを見ながら笑い合っていた。学生の旅行客だろうか。後ろ姿しか見えない。
鼓動。速くなる。
見たことのある、ベージュのコート。記憶を辿る。
あの公園。去って行く背中。
やめてくれ。
声に出しかけた。スマホを握る手が、汗で濡れる。
早く、この場を離れなければ。自分に言い聞かせる。それなのに、足は棒になったかのように動かない。
行列が流れた。俺の前に、隙間ができる。
「おい、進めよ!」
後ろに並んでいた男が、声を荒げた。かなり、響いた。
声に驚き、周囲の人たちがこちらを見る。
そして、彼女たちも談笑を中断し、ゆっくりとこちらを振り返ろうとする。
見るな。
声にならなかった。身体の全てが、硬直していた。
そのとき、俺をあざ笑うように吹いた北風が、綾の髪を揺らした。
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