もし願いが叶うならば

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 寒くはあったが、家族がいる家にすぐに戻ろうという気がしなかった。歩くか、と誰にいうでもなく呟くと、雪のせいで狭くなった歩道をただ歩いた。どこへ、というのはない。  無意識に人家がない道を選んでいたらしく、背の高い木々が立ち並ぶ木立の中を歩いていた。  太陽は沈みかけていて、道はすでに夜の色を見せ始めている。  引き返そうという気分になるきっかけを、変わり映えしない景色の中に探していると、木々の間に獣道のような隙間が見えた。よく見ると、解け残った雪の下から石畳が覗いている。かつては使われていた道なのだろうか。  風が、背中を押した。北風のような鋭いものではなく、柔らかな風だった。  妙な好奇心が心をくすぐり、足を踏み入れる。緩やかな上り坂。歩いている間も、時折優しい風が背中を押した。  不思議だ。寒気に強張っていた肌が、今は弛緩している。暗い道なのに、足もとははっきりと見える。  視界が、開けた。  丘の中腹あたりを切り拓いたような場所で、小さな祠が建っている以外、何もない。  近所のはずだが、こんな祠があるなんて聞いたことがない。 「どこだ、ここ」  呟くと、 「やあ」  背後からの声。振り返る。一瞬、心臓が止まるかと思った。  誰もいなかったはずの場所に、男が立っている。三十過ぎくらいだろうか。こんな季節に、喪服のようなスーツだけで、アウターは着ていない。端正な顔立ちだが、瞳に温度がなかった。 「怖がることはない。私は、君に益する存在のはずだ」  興味なさそうに言いながら、煙草を咥えた。パチン。俺は自分の目を疑った。  彼が指を鳴らすと、その人差し指の先に火が灯ったのだ。それで煙草に火をつけると、マッチを振るように手を振って火を消した。 「マジシャンですか?」  聞くと、彼は煙を鼻から出して笑った。 「どう思ってくれてもいいがね。私は神に命じられて、君をここへ招いた」 「神だって?」  新興宗教の狂信者。変質者。後ずさりしながら、スマホをポケットから取り出した。警察に。そう思ったが、圏外と表示されている。 「嘘だろ」 「ここは、君が普段くらす世界とは別さ。私が招待しなければ、入ってくることはできなかった」 「招待って、なんだよ?」 「君の無意識に、ちょっと訴えかけた。君も、なんとなくでここまで来たはずだ」  納得はできなかった。だが、大した理由もなくここへ来たことは確かだ。黙っていると、彼が煙草を指の間に挟んだ。その手の中に、ライターやマッチの類は見つけられない。 「神の気まぐれってやつさ。ああ、神ってのは私の主人にあたるんだが、たまに、ランダムで選んだ人間の運命に干渉するのが好きでね。今回は、君だ」 「運命に干渉って、どういうことだよ」  来た道を引き返すには、彼の横を通り抜けなければならない。会話を続けながら、隙を見つけようと考えた。  彼は面倒くさそうに、短くなった煙草を踏み消した。 「別に、そのままだよ。寿命で死にそうなのを延命させたこともあれば、一生底辺の人生を送るはずだった人間を出世させたこともあった。百姓の家に生まれた娘を、大名家の嫡男に変えてやったこともあった。人生の確定事項を、変えてやるのさ」 「自分じゃどうにもできないことを、どうにかしてくれる、ってことか?」  俺の言葉に、彼は指を鳴らすことで答えた。火はつかない。 「神が言うには、君はこのままだと、あの彼女と離ればなれになってしまうそうだ。どう努力してもな。そういう運命なんだ。だから、神が協力しようと申し出ている」  しばらく、言葉が出なかった。なぜ、この男は綾とのことまで知っているのか。 「どう、協力してくれるっていうんだよ」 「それは、君が考えるのさ。神は、大抵のことに於いて全能だ。だから、君が願えばおおよそのことは叶う。容姿を良くすることも、大金を得ることも可能だ。過去を変えて、君が大金持ちの家に生まれたことにすることもできる。ただし、願いは一回だけ。それと、人の気持ちだけは神にも手出しができない。無意識の海に、ちょっと波を立ててやることくらいだ」 「どうして、俺なんかに?」 「ランダムだと言っただろう。あくまで、神の気まぐれなんだよ」  彼は顔をしかめながら、首を軽く回した。それから、ジャケットの内ポケットから御札を出した。こちらへ差し出してきたのを、おそるおそる受け取る。どこの国の言葉かも分からない文字が、それに書かれている。 「それに向かって願いを話せば、神に届く。だけど神はせっかちだから、今夜いっぱいしか待ってくれない。日付が変わったら、そいつはただの紙切れになるから、気をつけろ」 「いや、そもそも神って――」 「渡す物は渡した。俺の用は終わりだ。じゃあな」  男がまた指を鳴らした。瞬間、景色が変わり、俺は木立の中の、きちんと舗装された歩道の上に立っていた。周りを見渡す。どこにも、さっき踏み入った獣道のような隙間はない。  夢。そう思いたかったが、手の中には御札が握られていた。
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