2話

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2話

あの日、終業を知らせるチャイムがなり、冷たい空気の中で初雪がふわりふわりと落ちてきた時、私は高校の校庭の隅に生えているポプラの木の下で立ち尽くしていました。 私はその日の少し前に失恋をしていたのです。私を振った男性は、初めて付き合った男性でした。 ぼんやりと思い出の中にいたせいでしょうか。顔に落ちてくる冷たい感触にも関心を示すことができずに、頭の中にある思い出を見つめながら、冷え切ったもの全てに立ち尽くしていました。冬の空気の刺すような痛みの心地よさに少し酔っていたのもありますが、その時の私には目の前のすべてが偽物のような気がしていました。 ただ一つ触れたポプラのざらっとした感触以外はと付け加えておきます。 非現実感が支配する中で、ふと教室で同級生が話していた、他愛もない会話の内容が頭に反芻していました。 「女ってさ昔付き合っていた男のことはすぐに忘れるらしいぜ。男は逆にずっと覚えてるんだって」 後の時代に言われ始めた、男女の恋愛の差をパソコンの機能で例えた”男は別名保存、女は上書き保存”という理論です。あなたぐらいの世代は分からないかもしれませんが、昔は良く男女の差として雛形のように使われていました。 私はポプラの木を抱きしめるようにして、その触感を強く確かめながら、ポプラの木にその事を何度も何度も語りかけました。 「男性は付き合った女性を全て覚えていて、女性はすぐに消してしまうと言うけれど本当なの?」と。 自問自答を繰り返せば繰り返すほど、心が削られるような、鋭いもので打たれるように痛みましたが、苦しく崩れるような痛みでも涙は流れませんでした。かえって内側からえぐり出されるような痛みが、私から現実感をゆっくり消していました。 今考えれば他愛もない疑問です。そんな事を考えていたのは、別れた恋人に忘れられるのが嫌だったし、自分も忘れたくないと思っていたからです。 私の問いは空気を伝わってポプラの木に吸い込まれ、もちろん答えが返ってくる事はなく、そもそも私は答えが欲しいわけでもありませんでした。  校庭を見回すと、サッカー部員や野球部員等が、部活動に励み、明るい声が校庭中に響き渡っていましたが、それですらスピーカーから流れる音楽ほどの現実感しかなく、かろうじて生きているという事だけが実感のない実感としてあり、それ以外は全てまぼろしのような気がしていました。   私が一人でぐるぐると思いに耽っていると、先ほどまでは明るく声を上げていた運動部が叫んでいるのに気づきました。先ほどまでの声とは違い、明らかに恐ろしいものを見た声の響きでしたので、ぼんやりとしながらも声のする方へ目を向けました。 皆が叫んでいる理由はすぐに分かりました。 あなたが知りたがっている、あの黒い雪が空から降ってきていたのです。 私は空を見上げて、黒く染まった雪をまじまじと見ました。雪はふわふわと、それはもう普通の雪と変わらず、ただ色だけが黒く染まっているようで、私の頭や体に落ちては溶けて消えていきます。 黒い雪は目に見えるすべてさえも闇の中に消して奪っていくようでした。 逃げよう、と心が訴えました。ただ一方で黒い雪に触れると、先ほどまで失恋に囚われていた心が溶けていくのを感じ、しまいにはゆっくりと校舎へ向かうことしかできなくなりました。 校庭で部活動に勤しんでいたはずの運動部員達は、気づけば見当たらなくなっていました。 私は黒い雪を全身に浴びるように、ゆっくり歩きながら校舎の方へ向かいました。校庭にある鉄棒や、野球部が放り投げたとみられるグローブやバットにふわりと落ち、熱に逆らい生きていることを証明するかのように、くるりくるりと落ちては消えていきます。 頭の中で雪が落ちるように色々な思い出が落ちてきました。 記憶が命を持つようにも感じました。 思い出が動画を再生するように流れました。 別れた恋人との幸せな記憶がゆっくり駆け巡り、そして燃えて溶けていきました。ぱちぱちと本当の火のように音を立てて燃えて消えていくのです。目の前ではひっきりなしに、黒い雪が落ちて黒くタールのように滴り落ちて流れているのですが、既に私は幸せな記憶の虜になっていました。 黒く落ちてきた雪はまるで、夢をまことに変えているようでした。
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