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優しい人
「困った時は、いつでも相談にのるから。安心して。……ね?」
何も知らない友春さんは、優しくわたしの頭を撫でた。友春さんの大きな手が今、わたしの頭の上にある。
友春さんは、優しい。
子供の時からそうだった。暴力を受けるわたしに、友春さんはいつだって優しい。
わたしが泣いている時にだけ、友春さんはわたしに触れてくれる。
だからわたしは、別れたくない。……あの人と。あの人達と。
暴力よりも恐ろしいのは、友春さんとの繋がりを失うこと。彼がわたしの傍に居ない。それ以上の恐怖は、わたしには存在しないとわかっている。
例え暗闇の中をさ迷い続けるような生き方だとしても。
その先に、光輝く未来など無くても。わたしは『今』を選ぶ。
「お母さんはきっと、お父さんが好きなんだと思う……」
わたしが呟くと、友春さんは虚ろな目で、窓の外を見つめた。その瞳は月を映してきらきらと輝いているけれど、今の彼の心が冷えきっていることをわたしは知っている。
そしてその瞳の奥に、どんな感情を隠しているのかも。わたしは全部、知っている。
友春さんはわたしの母に、恋をしている。ずっと、ずうっと、昔から。
彼と初めて会ったのは、わたしが小学生になったばかりの頃。母が友達を紹介すると言ったとき、隣に並ぶ友春さんを見て気づいた。この人は、わたしのお母さんを好きなんだって。彼の目は誰よりも優しく、慈しむように母を見つめていたから。絡みつく視線は、言葉よりも多くの感情を放っていた。結局、母と友春さんの本当の関係は、怖くて一度も聞けなかったけれど。たぶん、母も同じ気持ちだったのだろう。
だから彼が、わたしを一人の女として見てくれる日は永遠に来ない。今までも、これから先も、ずっと。
それが出会った時から変わらない、わたし達の距離。決して埋まることのない、わたしと彼の間にある深い溝。
だけど、今この一時のように、彼の横顔を見つめる事が出来るのなら。彼の傍に居るためならば。わたしは、どんな痛みにだって耐えられる。
父に殴られる体の痛みも、母に愛されない胸の痛みも、そんなのは全て些細なこと。
もう一度、友春さんの手に触れてほしい。あの温もりを味わうことが叶うなら。今、この瞬間が夢ではないと、幸せを噛み締めることができるのならば……。
まだ痛みの残る頬に、濡れタオルを力強く押しつける。腫れ上がった皮膚は奥歯に当たって裂け、口内は傷口から流れる血で満たされていく。
「痛い……」
小さな声で囁くと、友春さんがわたしの瞳からこぼれ落ちる水滴に気付いて、そっと頭を撫でる。そして、優しく話しかけてくれた。
「大丈夫?」と。
それだけで、充分すぎるほどに、わたしの心は幸福で満たされてゆく。
だって、わたしが涙を流す時だけは。友春さんの優しい瞳は、わたしだけをまっすぐに見つめてくれるから。
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