逃避行

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逃避行

彼が寝静まるのを待って、わたしは夜の町へ飛び出した。行き先はとっくに決まっている。迷いなど無かった。 頬を打つ風が冷たい。追いかけて来ないか少しだけ不安になり、振り返ったけれど、誰かがついてくる気配はなかった。 一歩踏み出すごとにアスファルトの固い感触が足の裏から伝わり、殴られた箇所に鋭い痛みがはしる。そして走りなれていない足は、靴擦れと筋肉の疲労を訴えてきた。こんな事になるのなら、陸上部に入って鍛えておけば良かったと、今さら思う。 冷たい空気と熱い吐息の温度差で、顔を覆い隠すほど大きなマスクの中には水滴が溜まっていく。不快感よりも先に、不馴れなメイクが崩れていないかどうかが気になった。 「もう少し、もう少しだけ……」 決して近くはないその場所へと、痛む足に無理をいって走り続ける。移り変わる景色を希望で染めながら。 「やっと、着いた……」 息を切らしながら閑静な住宅街を抜けると、白く細長い建物が見えてきた。夜空には真ん丸な月が、神々しく光輝いている。ここは、友春(ともはる)さんの住むマンション。もう遅い時間だからだろう。窓からもれる光は、多くはない。 満月の明かりは人を高揚させると言うが。今のわたしには、なかなか説得力のある話だ。 荒くなった呼吸を落ち着けるために、夜の空気を肺がいっぱいになるまで吸い込む。冷たい気体は胸をチクチクと刺激した。 そして、さっきまで走っていた背中に、どっと汗が流れる。それはひんやりと冷たく、わたしの体から熱を奪っていく。徐々に冷静さを取り戻しながら、目を閉じてわたしは考えた。 今が何時なのかも、わからないけれど。こんな遅い時間に会いに来て、迷惑ではないだろうか。今になってそんな事を考えてしまう。 (友春さんは、自分を頼ってと言ってくれたじゃないの……) ズキズキと(うず)く左頬を撫でる。腫れ上がった皮膚の質感は、まるで他人のもののよう。時折はしる鋭い痛みだけが、それが自分の一部であることを教えてくれた。 今までだってずっと、暗闇の中に居たんだもの。そのまま歩き続ける覚悟は、とっくに出来ている。
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