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「今度のコンサートな……桜井にソロをさせてみようと思う」
皆の期待に満ちた視線を受けて、橘先生が口にしたのは、そんな言葉だった。
「わた、私……ですか!?」
おたおたして、口がよく回らなかった。他の人も皆、驚いて言葉が出ないようだった。だけど、私が一番に異を唱えたかった。
それは、歌うのは好きだし、できれば一回くらいは表舞台に出たいとは思っていたけど、自分の実力もわかっているつもりだ。それを思えば、とてつもない迷惑がかかってしまうことぐらい想像に難くない。
私含め、眉をひそめる部員全員に対して橘先生は宥めるような仕草をして見せた。
「皆、聞いてくれ。これは部長やパートリーダーとも話し合って決めたことだ。確かに桜井は、技術的に足りない部分がかなり多い。だけどだからと言って、ずっと裏にいさせるというのもおかしいだろう。彼女もれっきとしたソプラノパートの一人なんだから」
先生の言葉に、部長とソプラノのパートリーダーも頷いた。それでも、皆は納得しがたいようだった。当然だ。本人が納得できないんだから。
私が選ばれてしまったら、この先どうなるのか。そして、ソロに選ばれて……という夢を描いていた梨花ちゃんは……?
「皆、先生も部長もリーダーも決めたんだよ。いいじゃない。応援しようよ」
梨花ちゃんは、さっき見せた花のような笑顔を、今度は部員皆に向けた。その顔を見て、他の部員たちもみんな、各々小さくうなずきを見せた。
「よし、皆了承したな。じゃあ、頑張ってコンサート成功させような」
「はい! 詩ちゃん、初ソロ、頑張ってね」
梨花ちゃんは、くるっと振り返って言ってくれた。本当なら、この中で誰よりふさわしい役目を取られたというのに……。
「あ、ありがとう……頑張る」
「うん!」
その日の帰り道でも、先生の言葉を気にしていたのは、梨花ちゃんではなく、私の方だった。
「まだ気にしてるの? やっとチャンス掴めたっていうのに、暗いよ! いつものスーパーポジティブはどうしたの?」
「だ、だって……さすがにソロは……荷が重いっていうか。それに、その……梨花ちゃんは……」
「だから気にするなってば。言ってたじゃない。先生も部長もリーダーも承認したんだって。だったら部員としては従うもんじゃないの?」
「そ、そうかな?」
「そうだよ」
部室からずっと、笑顔でそう言ってくれる。本当なら怒るかショックだろうに。
これ以上、気を遣わせてはいけないな。
「うん、じゃあこれから先は、頑張る!」
「その意気だ!」
「はい、隊長!」
赤信号で立ち止まりながら、お互いにクスクス笑った。ようやく、笑えた気がした。
「それにね……」
梨花ちゃんも、ニコニコした顔のまま、何か小さな声でつぶやいた。
聞き取りづらかったから聞き返したけれど、梨花ちゃんは言い直さずにそのまま続けた。
「次のチャンスは、案外早く回ってくるかもしれないから」
「え?」
聞き返したのと、梨花ちゃんの手が伸びてきたのは、同時だった。
「……え?」
すぐ後ろにいたはずの梨花ちゃんと私の距離がどんどん離れていく。
体が、後ろへ倒れてしまう……このままじゃ、車道に出てしまう。
梨花ちゃん……どうして、手を掴んで引き戻してくれないの?
疑問の声を出す前に、私の意識は、走ってきたトラックによって、ぐしゃりと潰された。
最後に見たのは、いつもの可愛らしい笑顔かと思っていた梨花ちゃんの、醜く歪んだ笑みだった。
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