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 玄関まで走り、自分の靴をとれと時乃に促される。急いでぼろぼろのスニーカーを手に取ると、先に自分の靴を手にしていた時乃についていった。 「玄関から出ないの?」 「玄関から出ると先生に見つかる可能性が高い。裏庭近くに窓があるから、そこから逃げ出そう」  教室のあるルートをわざと避け、裏庭に繋がるその窓へやってきた。時乃は平然と窓を開け、軽い体をひょいとくぐらせる。  遥はこの窓を飛び越えることに不安があった。この窓をくぐってしまえば、大人たちに怒られるだけでなく、反省文を書かなければいけなくなるだろう。そうして立ち往生していると、時乃はまっすぐ遥へ手を差し出してきた。それだけで、迷いが吹き飛ぶ気がした。どうせ戻ったって、あの虫籠で窒息死するだけだった。  時乃の手を取り窓を越えると、鉛色の空が広がっている。朝、際限なく降っていた雨も今はやんでいた。自分のテリトリーがぐんと広がっていく気がした。 「さあ、行こう」  時乃は遥から手を離して、先陣をきって歩き始めた。学校のフェンスをなんとか飛び越え、細い道をわざと選んで駅まで辿りつく。 「このまま電車に乗ろう」  駅に掲示されている時刻表では、次の電車はちょうど三分後だった。 「どこに行くの?」  遥がそう尋ねると、時乃は薄く笑うだけで答えを返してくれなかった。遠目から見ただけでは分からない、彼の人形然としていない、人間らしい笑顔だった。  カンカンという踏切の音が閑散とした駅構内に響き渡る。そのけたたましい音につられて、遥の胸もどきどきと逸った。  時乃の後に続いて遥も電車に乗り、二人並んで長椅子の端に座る。時乃は窓から差し込む光に目を細めていた。 「え、えっと」 「白波時乃」 「……君の名前は知ってるよ」 「へえ。同じクラスになったこともないのにか?」 「君は中学からこっちに来たから、すぐに覚えたよ。他の子は小学校から一緒だからね」  君が悪目立ちしているから、とは遥は言えなかった。時乃は勝ち気な目を鋭く光らせる。 「俺が目立つから覚えたんだろ?」 「そ、それは……」  言葉を詰まらせてしまう遥に、時乃はくくっといたずらが成功した幼子のように笑った。 「悪かったよ。困らせるようなことを言って。天野遥君」 「な、なんで僕の名前を知って……」  戸惑っていると、時乃は愛しげに遥と視線を合わせて話す。 「君は天才的なボーイソプラノだからね。あんな狭い田舎でなければ大成していたさ」 「そうかな」 「そうだよ。俺は前から君に目をつけていたんだ。とても綺麗な声をしているから」 「……ありがとう」  ボーイソプラノ歌手に憧れている遥にとって最上級の褒め言葉だった。周りから笑われることはあれど、このように対面で自分の声を褒められることなどなかったのだ。嬉しくて胸が満たされたが、恥ずかしさが勝ってしまい、はにかんで笑うしかできなかった。  しばらく乗っていたが、一向に降りる気配のない時乃に遥は尋ねた。 「ねえ、本当にどこに行くの?」 「M市」 「M市!?」  M市は二時間の電車を乗り継ぎしてさらに行ったところにある。遥はまず真っ先に電車賃の心配をした。そもそも遥は財布を持ち歩いていない。そのことを自覚して、頭からさっと血の気が引いていった。 「僕、お金持ってきてない……」 「気にすんな。奢ってやる」 「でも、二人分なんて」 「だから、気にすんなって。サボったのもいきなりだったし、しょうがないだろ」  遥はどうすればいいのか分からなくなった。時乃はどうして自分に親切にしてくれるのだろう。無償の親切が、今の遥には身に沁みた。遥はおずおずと感謝を伝えた。 「……ありがとう」  すると、時乃は年相応の少年らしく破顔して目を細めた。この言葉で良かったのかと安堵するとともに、今まで自分が想像していた「白波時乃」という少年は間違いだらけだったのだと思った。もっと冷たくて、そっけなくて、悪いやつだと思っていたのに。 「見ろ。海だ」  隣に座って車窓から海を眺める少年の目は、光を反射してきらきらと輝いていた。
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