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4
M市の駅に着くと、時乃は迷いない足取りで駅構内を進みはじめた。駅のコンビニで二人してパンを買う。遥はメロンパンを買った。小柄なせいか、パンは一つで十分なのだ。
焼きそばパンを頬張りながら歩く時乃は、メロンパンをちぎって食べる遥にこう言った。
「こういうときは軽く食べるくらいでいいんだよ。腹が膨れないほうが動ける」
遥はそれを聞いて、なるほどと納得した。時乃が異様に痩せぎすなのは、普段から必要最低限の食事しかとっていないからなのだ。時乃の背中で揺れる黒いギターケースを横目で眺めた。彼の迸るエネルギーはどこから来ているのだろう。
駅を抜けると、目の前に広場があった。広場の中央に小さな噴水があるが、秋のせいか使用されていない。M市も雨が降った後なのか、ちぎれた雲が空を埋め尽くしていた。雲の隙間から差し込む太陽の光が煌きを放ち、ビル街に太陽の欠片が散らばっていくようだった。広場には帰宅途中の学生や、井戸端会議をしている女性や老人がいる。
時乃は噴水の縁に腰をかけ、ケースからギターを取り出した。そして、学校の規則で持ってきてはいけないスマートフォンを手にし、なにやら操作する。
「お前、この中で歌えるのある?」
画面を見せてきたので、時乃に身を寄せて覗き込む。そこには曲のタイトルとアーティストの名前らしき文字がずらりと並んでいた。時乃から端末を受け取り、ゆっくりスクロールする。遥はスマートフォンを扱ったことがなく、慣れない操作に手間取った。
聴いたことがある名前もあれば、まったく知らない名前まである。そうしてスクロールしていくと、見知ったロックバンドの名前があった。
「あ、RTWだ」
「あんた、RTW知ってるのか?海外のバンドだぞ?」
「ボーカルのキリエが元々好きでさ。知ってる?彼、小さい頃ソリストやってたんだ」
時乃は片眉を上げて、「へえ」と驚いた。そうしている間にも、ギターの弦を調整している。
「本当だよ。僕はキリエを知って、ボーイソプラノに憧れるようになったんだ。……彼みたいに、上手には歌えないけど」
「なに言ってんだ。十分うまいよ」
「お世辞はやめてくれよ。……音楽の時間じゃみんなに笑われてばっかりなんだ」
先ほどの音楽の時間を思い出して、胃が痛くなった。自分は授業には真面目に取り組んでいる。歌うのも好きなのだ。だが、自分の住んでいる世界では自分の歌声は異質なもので、嘲笑われる存在なのだった。
クラスメイトだけではなく、両親や兄弟も、自分の歌声を認めてはくれなかった。
痛む腹を抑えて、あの巨大な虫籠を思い出す。自分の世界は虫籠だった。
だがこの白波時乃という少年は、虫籠の中でも極めて不思議な輝きを持つ翅を持っている気がした。その翅がきっと、彼が手にしている年季の入ったアコースティックギターなのだ。
「すごく澄んだ声だよ。綺麗すぎて嫌悪する人もいるんだろうけど、俺は好きだな」
ギターの調整を終えた時乃はスマートフォンを受け取り、今度はある画面を開いて遥に返した。画面には何度も読んで何度も聴いた歌詞が表示されてあった。
「せっかくだからRTWの曲を歌おう。歌えるだろ?」
「え? ここで?」
「ここ以外にどこで歌うんだよ」
そう言われ、遥は辺りを見渡した。人だかりというほどでもないが、学生や老人など、それなりに人はいる。遥は心臓が小さくなる錯覚に陥った。
「そんな! 無理だよ。こんなところでなんて」
「大丈夫。俺もギター弾くから」
「そういうことじゃなくって!」
戸惑う遥に構わず、時乃はギターの肩紐を首に下げ、ギターの試し弾きを行っている。細い体から想像できないエネルギーが、軽い演奏からでも感じられた。
「……それに、RTWは歌えないんだ」
「どうして?」
「僕には少し低いんだ。音程が」
途端に情けなくなって、遥は首をすくめた。しかし時乃は、なんでもなさそうに一つ頷いて、ギターをかき鳴らしながら歌った。遥より低い、掠れていて艶やかな声だった。
「これくらいのキーなら歌えるだろ。俺にはちょっと高いけど」
「でも……」
それでも躊躇っていると、時乃にきっ、と見据えられた。通常より色素の薄い瞳は太陽の欠片を反射し、様々な色彩を帯びて煌めいていた。
そうして彼は、遥をその目に映して叫んだ。
「せーのっ」
突然の掛け声に遥は慌てて声を出した。時乃が「あー」と声を出せば、遥もそれに倣った。発声練習が終わり、喉の調子がよくなったのを見計らったのか、時乃が本格的にギターをかき鳴らし始めた。歌の入りが分からなかったが、時乃が口ずさんでくれる。それにつられて歌うと、リズムのとり方が分かってきた。英詞が口に馴染むと、時乃は歌うのをやめて、遥の声だけの空間になった。
それでも遥は前を向けなかった。時乃の、楽しげに曲がっている口元と細められた目だけを見ていた。学校で遠巻きに見ていた、退屈そうな彼から想像もできないほど、彼の表情は瑞々しい。彼はこんなふうに楽しんで演奏するのだ。「楽しい」という感情が、遥にも伝染していくようだった。
ギターを弾いている時乃と目が合う。薄い茶色の目は、まだ見ぬ世界を恋焦がれるかのように輝いていた。
碧色。朱色。金色。
様々な色が、彼の瞳に吸い込まれていった。
目の合った彼が顎をしゃくって遥の視線を促した。つられて視線をあげると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
人。
人。人。人。
学生、老人、子ども、母親。様々な人々が遥の歌を聴いている。
虫籠に敷き詰められたゲジゲジじゃない、二足歩行の人々が目をきらきらと輝かせて遥を見ていた。
その瞬く光は、夜の海の空によく似ている。海も空も、境界があやふやになった真っ暗な世界で無数に散らばった星のようだった。
そんな微かな光が、一斉に自分に向けられているのを、遥は見た。
その光は決して嘲りではなかった。
胸が高鳴る。ずっと笑われていた、狭い虫籠の中で苦しんでいた動悸とは違う。まだ見ぬ世界が目の前に広がった、そんな高揚だった。
歌い終わると暖かな拍手が響く。年老いた女性から「お兄ちゃん、上手だねえ」と声をかけられ、慣れない称賛にどぎまぎした。
「まだまだ歌うんで、良かったらそのまま聴いてってください」
時乃が不敵な笑みを浮かべて観客に声をかける。遥はその言葉に、言葉にならない嬉しさがこみあげてくるのだった。
彼は美しい微笑みを浮かべて、当たり前のように言うのだった。
「付き合ってくれるだろ? 遥」
時乃の提案に、遥は笑って「うん!」と元気よく答えた。
空には、静かな夜の気配がただよい始めている。赤く燃えた空に、紫苑の雲のヴェールがかかっていた。雨上がりの夕焼け空は、遥には鮮明すぎた。
こんな鮮やかな世界で、ずっと歌い続けていたい――。
この少年、時乃が、そんな鮮烈な世界に連れて行ってくれる。根拠のない確信が、遥の胸にはあった。
そんな微かな遥の願いは、白い息とともにゆっくり溶けていく。
時乃の奏でるギターの音に耳を傾ける。なんて素敵な翅の音なのだろう。夜の訪れを知らせる冷たい空気を吸い込んで、遥は歌うのだった。
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