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「考え直してほしい」
そう言うと彼は私を強く抱き寄せた。その瞬間、私の所へ慌てて来たのが伝わった。耳元で聞く彼の荒い息遣いと、汗で湿ったシャツ。爽やかな風と共にフワッと香るのは、毎朝通学が憂鬱になる、あの満員電車の充満した嫌な臭いとはほど遠く安心した。そして笑いそうになった自分に驚く。
ここに呼び出すまで何回イメージトレーニングを行っただろう。案外落ち着いているものだ。さっきまでのドキドキは何処に行ったのか。そんなことを考えていると、彼はより一層力を込めてきた。
「ごめん。もう寂しい思いはさせない」
消えそうな彼の声を信じていいものか。
彼の肩越しに見える夕焼けのグラデーションの妖艶な雰囲気に飲み込まれそうになる。
私はそっと息を吐いた。
「大丈夫。もう寂しい思いはしないから」
私はゆっくり体を離すと彼の目を見た。
〝女の涙はズルい〟
そう言われてから、彼の前では泣かないように振る舞ってきた。だが、この目の前の男は声を振るわせ、目に涙を溜めている。それは同情を求めるように。私に〝泣け〟と命令しているのか。私の〝涙〟を期待しているのか。残念ながら、そこまでの演技は私には持ち合わせていない。私は彼に届くように大きく息をついて言った。
「私はあなたと違って本気の恋しかできない」
「魔が差したことを根に持っているのか?」
「それも一度じゃなく二度も」
「もう過去の話じゃないか」
「そう。過去の話。その過去とサヨナラしたくて今に至るの」
「おまえ無しなんて考えられない」
また私は彼の腕の中に戻された。
「私のこと〝空気みたいな存在〟って言ったの覚えてる?」
「だからそれは空気がなきゃ生きていけないって。それだけ大切な存在だって!」
「じゃ、これから苦しんで。酸欠になって死んじゃうか身を持って証明して。そしてそれを東京の彼女に見届けてもらってね」
「彼女はおまえだけだ! 信じてくれ!」
この人の彼女の定義って何なんだろう。
彼の首筋に残った赤い傷を引っかき傷とでも思えば楽になるのか。初めて見つけたときは朝まで泣いた。嗚咽するまで泣いた。
そのせいか、私の涙腺には涙が残っていない。この数ヶ月で私の涙は出払ったようだ。
「もう好きじゃない」
私がハッキリ言うのを阻止するように、彼の叫び声に近い台詞は橋に響き渡った。
あぁこんな感じか。人が泣き止むのを待つ気持ちって。私達はこのやり取りを何度繰り返してきたのだろう。私の凍りついた心は彼の情熱で溶けていく。それはやがて無くなり原型に戻ることはない。始まった場所で終わりを迎えるシチュエーションに私は満足していた。
サヨナラ。
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