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その日の朝、上林さんはいつもの電車に乗ると、定位置の座席ですぐに舟をこぎだした。前夜寝しなに読み始めた小説が面白くて、睡眠時間を大幅に削ってしまったからだ。ふと目を覚ますと、車内は乗客も増え、ほどほどに混み始めていた。目的地まではあと数駅ある。ドア脇に、フレッシュさんが立っているのが見えた。うつむき気味の顔はいつにも増して青白く、少しでも誰かに押されたら、倒れてしまうのではないかと思うほど、力なく手すりにもたれかかっている。ここから更に電車は混雑していくし、席を変わってあげたほうが良いのではないかと、上林さんは考えた。だが、目の前に立っていたのならいざ知らず、若干距離のある場所に立つ若い女性に、いきなり中年男が声を掛けたら、不審がられてしまうかもしれないと思考を巡らせていると、電車は次の駅へと到着し、ドアが開いて客の乗り降りが始まった。
(あっ、危ない!)
「のっぽ王子」が抱えた大きなスポーツバッグが、彼の降り際にドア付近にいたフレッシュさんにもろにぶつかりそうになった。その瞬間 ──
(……えっ?)
上林さんの目に、驚くような光景が飛び込んできた。のっぽ王子のエナメルのスポーツバッグが、フレッシュさんの身体をふいっとすり抜けたのだ。それだけではない。降りる客があらかた済み、ホームに並んでいた乗客がドア一杯に広がって電車に乗り込んでくる際にも、乗客はドア口に立つフレッシュさんの身体がまるで透明人間であるかのように、次々と通り抜けていく。こんな異常な状況にもかかわらず、「メガネさん」や「Mr.ストライプ」や他の乗客は気づいているのかいないのか、誰ひとりとして反応していない。呆気にとられた上林さんが目をしばたいてよく見ると、フレッシュさんの身体は他の乗客よりも色味が薄く、向こうの景色がうっすらと透けている。近頃元気がないと感じていたフレッシュさんは、元気どころか実体さえもなくなってしまったというのか?
電車は終点の駅に到着した。吐き出されるように乗客たちが降りていく。気が付けばいつの間にか、フレッシュさんの姿は忽然と消えていた。
明日もまた、フレッシュさんはいつもどおり同じ電車に乗ってくるのだろうか。
確かめるのが怖くて、上林さんは翌朝から電車の車両を変えてしまった。
新しい車両の顔ぶれにもようやく慣れてきたけれど、あの日見たフレッシュさんの青白い顔を、上林さんは忘れることが出来ずに、ふとした瞬間、電車のドア口に彼女の姿を未だに探してしまうという。
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