ホタルのひと

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―――僕はタバコが苦手だ。  あのヤニくさいにおいとか  煙の感じとか  体に悪いところとか  全てが嫌いだった。  とくに女の人で吸う人を見るとさらに嫌な気分になる。  妊娠中に平気で吸う人  平気で子供の前で吸う人  マナーのなってない喫煙者  男以上に多い気がする。  僕の勝手なイメージだけど。  所詮、義務教育の終わってない自分から見た世界だからそうとしか言いようがないのかもしれないけど。  それでも僕は大人になっても、タバコを吸わないだろうという変な確信だけはあった。  たぶん、それが僕の性格とか性質だろうからだと思っている。  ―――そんな僕の前にその人は現れた。 「今日からお隣に住むことになりました。」  そう挨拶しに来たのは昨日の午後で。  たまたま仕事で親父がいなかったのと、母さんが買い物に行っていたのとで。僕がその人を迎えることになったのもある意味、偶然だったわけで。  その上、その人がすごく綺麗で  いいにおいがしていて……  でも相手は大人だからとか  僕はまだ子供だからとか  僕の中にはそういうつまらない考えがあったから、きっと第一印象からは  『好き』  とか、そういう感情はなかったと思う。  ……たぶん。  だからその日はただ、これからお世話になりますとか挨拶をして、  粗品を頂いてそこで終わりだった。  ただのお隣さんで終わる関係だと思っていた。  でも、その、今日会ったその人は  マンションの階段で  あのタバコをくわえて外を眺めていたから  僕は正直おどろいた。  一人部屋にいるとすごく寂しく感じるからとか  星が綺麗だったとか  貸家の中にヤニが残って汚くなるのはまずいからとか  そんなことを僕に言っていた。  そしてそのタバコをじっと見ていた僕に 「何?吸ってみたい?」  なんて、冗談じみて聞いてきたりして  でも、こういう性格の僕だから  やっぱり言葉で出てきたのは 「未成年なので、無理です。」  なんて、まじめ腐った言葉だけ  その一言があまりにも冷たいような気がして相手を傷つけたような気がして あわてて 「……で、でも興味はあります!」  とか、付け加えた。  本当は興味があるわけでもないのに  最初に言った言葉が消えるわけでもないのに……  そんな僕を一瞬、驚いたような顔で見て    そして笑った。  まじめだね。って笑っていた。  そんな様子を僕は驚いてただ眺めていたら 「吸いたくなったらいつでも言って  悪の道にいつでも誘ってあげるから。」  なんて……  笑って言っていた。  その時初めて、僕はこの人が好きなんだって気がついた。  そんなお隣さんからは最初、会ったときのようないいにおいとは違う  タバコのにおいがした。  でも、なぜか  本当になぜか  それが嫌いじゃなかった。  あれからまた少し時がたって  また階段でタバコを吸っているところで会ったりして  そのまたある日はベランダでタバコを吸うのを  学校の帰りで見かけたりして  まるでホタルのようだなって思ったりしていた。  そんなある日、あの人が知らない誰かと一緒にベランダにいたのを僕は見た。  僕よりも背の高くて、大人の、タバコを一緒に吸っていた人と。  ああ、やっぱりな。  たぶん、あの人にはそういう人がいるって気付いていたけど  目の当たりにすると少し胸が痛む  でも、幸せそうな二人の笑顔を見ていると  胸の痛みと同時に暖かい何かを感じる  ふと、僕に気付いたのか  ベランダから手を振るのが見えた。  その時僕はどんな顔をしていたんだろう。  ただ、その後驚いたようなあの人の顔  そして、いつの間にか走って自分の家に戻っていたことしか覚えていなかった。  そのまたある日  今度は一人でマンションの階段に座ってタバコを吸っていた。  その日の灰皿の中はもう灰や吸い終わったタバコがいっぱいで  その人の感情がすぐにわかってしまった。 「あの人とね、けんかしちゃったの」  ぽつりと、その人は独り言のように言った。  僕に対して話しかけているのかもしれないが  もしかしたら、自分に問いかけているかもしれないその一言 「本当はね、あの人の気持ちも分かるんだ。  でもね、がんばりすぎているから  だからちょっとした注意のつもりが言い過ぎちゃった。」  そう言って寂しく笑った。  僕はそれ見て、なんていったらいいのか分からなかった。  でも、その笑顔を見ているのがとてもつらくて……  だから、ふと考えた。  もし僕がお隣さんの言う『あの人』ならば…… 「僕は――――  『その人』にはあなたが必要だと思います。」  僕の言葉にその人は僕のほうを見た。 「どんなにけんかをしても  支えて見守ってくれる人が必要なんですよ。  がんばっている『その人』だからこそ。」  そう思ったとたんに言葉が出ていた。  向こうはそんな僕の言葉に驚いていたが、またすぐに笑った。  涙を拭き、笑っていた。  うん。ありがと。  それがその人の言葉だった。  その後、またあの二人はやり直せたらしい。  僕の言葉のおかげだと笑顔で話してくれた。  嬉しいやら悔しいやら  でも、あの人が幸せならそれでよかった。  それから受験も近くなったある日  親父が来年には転勤になるという話を持ってきた。  ちょうど僕も学校を今年度で卒業するわけだし  僕は未成年だから親の手が必要だろうから  転勤先の学校の受験を受けてみないかと言われた。  確かに高校の編入は普通に入学するよりも難しいという話は聞いている。  それに転勤先の方がこっちよりもずっと都会で  生活も楽しくなりそうだ。  友達に話をすると寂しくはなるけどうらやましいなあと言っていた。  でも、そこにホタルのひとはいない。  また時が過ぎて  その日はすごく寒くて……  それなのに受験だなんて、とため息をついていたある日。  その人がまた階段にいた。  今回はタバコを吸っていない。 「遅いぞ。受験生。」  白い息を吐いて、そう言っていた。  そして、ぱっと僕のそばに来たと持ったら  コートのポケットに何かを入れていった。 「試験、がんばりなよ。」  そう言って、お隣さんは部屋に戻っていった。  ポケットの中に入っていたのは小さな合格祈願のお守りだった。  どうやら、うわさ好きの母があのひとに僕の試験日を教えていたようなのだ。  僕はそのお守りをぎゅっと握り締めて電車に乗った。  お守りのおかげか  僕の実力だったか  それとも努力の賜物か  ともかくその日の受験に合格した。  もう、これでこの町とも  マンションとも ……ホタルのひとともお別れだ。  でも僕はあのひとが幸せならそれでいいと思う。  これからもこの先もずっと……  引越しの日、あのひとはあの男を 『あの人』を連れて手伝いに来てくれた。  正直、前に走り出してしまったことを思い出すと 自分自身がどうなるか不安だったが  意外と気持ちは落ち着いていて  ああ、少しは大人になったのかなと思ったりした。  荷物をまとめていると  『あの人』が話しかけてきた。 「より戻せたの、おまえのおかげなんだってな。」  少し驚いた。  僕に話しかけてくるなんて  僕の顔を見て  そいつは笑った。  ああ、大人の人ってみんなそう笑うのだと知った。 「まあ、そのお礼だ。  最後だし今日だけ、な。」  そう言うとその人はあのひとを呼んだ。  そして、こっち手伝ってくれ俺はお昼買出しに言ってくるとか言って  僕たち二人を残して出て行った。  今日は最初に会ったときのようにいいにおいがした。  そしてやっぱり綺麗だった。  そしてやっぱりタバコを持っていた。 「これが少し片付いたら少しタバコ吸いに行ってもしてもいい?」  その言葉に僕はただうなずいた。  そして、タバコを吸う姿もやっぱり綺麗だった。  あれからどれくらい時がたっただろう。  高校生になっても実際のところ、そこまで変わったとは自分でも思ってはいない。  それに相変わらず、堅物なままだ。  たとえばやっぱりタバコが苦手ところとか。 ―――あのヤニくさいにおいとか  煙の感じとか  体に悪いところとか  全てがいまだに嫌いだ。  それに女性で吸う人を見ると嫌な気分になる。  妊娠中に平気で吸う人  平気で子供の前で吸う人  マナーのなってない喫煙者  やっぱり、男以上に多い気がする。  僕の勝手なイメージだけど。  だから僕は大人になってもタバコを吸わない。  たぶん、それが僕の性格とか性質だろうからだと思っている。  それでも  それでもあの人だけは好きだった。  あのにおいも  あの煙も  あのしぐさも  僕はあの日、ホタルの彼女(ひと)に恋をした。
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