一、

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一、

 事の始まりは二ヶ月ほど前の夜だった。部屋に臭いがつくのを気にして、いつもの様に私はベランダで煙草を吸っていた。何本目かの煙草を咥えようとした時、向かいに見えるマンションの一室、その部屋の明かりがふと気になった。カーテンを開けたまま明かりを灯す部屋。  思い返せばその部屋は夜、いつも明かりが灯っていたのではないだろうか。私は深夜の遅い時間でも口寂しくなれば一服しにベランダへ出ることも度々あったが、その時でも同じようにあの部屋はカーテンを開けたまま、明かりを点けていた気がする。随分と不用心なことだと思いながら、煙草が切れた為、その夜はそのまま部屋へ戻っただけだった。  次の夜、別の時間に煙草を吸いに出たが、その部屋は昨夜と同じ様に明かりを点けていた。夜が更けると、向かいの建物には明かりの灯っている部屋は数える程しかない。その中で煌々と明かりを点けて、カーテンまで開いているのだから殊更目立つ。最初は見るまいとしていたものの、気づけばじっくりと様子を観察してしまっている自分がいた。いつもより多めの煙草を吸い、少し長い時間、ベランダの柵に寄りかかって眺める。  窓の向こう、暖色系の明かりの中で照らされているのは普通の部屋だ。広めのリビング、テレビにテーブルに葡萄酒色のソファ、そしてそこに一人の女が座っている。  ちょうど窓に背を向ける形で座っているから、どんな顔をしているかはわからない。ソファの向こうのテレビは点いてはいない。何もしないでずっと座っているように見える。後ろからは手元が見えないが、あるいは本でも読んでいるのかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、私は彼女の細い首筋をずっと見つめていた。  それ以降、夜に煙草を吸う時は、部屋と彼女の様子をぼんやりと見るのが習慣になった。その為にわざわざ物置からアウトドアチェアを引っ張り出してベランダに置いた。良い趣味とはとても言えないだろうが、といって殊更に止めようとする程に大きな罪とも思っていない。博打も女遊びもしない寂しい独り身の、細やかな非行。  いつだって彼女は同じ場所に座っている。立ったり、移動したりしている姿を見たことがない。人形かとも疑ったが、首をゆらゆらと左右に揺らしていることがあるからそれはなさそうだ。その揺らいでいる様子はまるで、穏やかなリズムで鼻歌を歌っているかのようだった。  昼間に同じ窓を見たこともあったが、その時はカーテンが閉じられていて中の様子がわからなかった。カーテンが開いているのは決まって深夜で、その向こうでは彼女が座っている。見るのはいつも座っている後ろ姿と、長い髪だけ。
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