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二、
最初は眺めるだけで良いと思っていた。しかし欲望というものの常で、その大きさに際限はない。次第に見るだけでは飽き足らず、彼女のことをもっと知りたいと思うようになる。どういう名前なのか、どんな声で笑うのか。そして、どのような表情をしているのか。
休日に外出した帰りなどにふらりと、彼女のいるマンションの入り口を覗いたりするようになった。後ろ姿しか知らないはずなのに、出会えばきっとわかると信じている自分がいる。
だが、何度か繰り返したところで出会えることはなく、このまま続けても他の住人に怪しまれるだけだと止めた。といっても彼女を知ることを諦めたわけではなかった。代わりにもっと簡単な方法があることに気づいただけだ。
ある夜、いつものように彼女の様子を眺めながら、私はその部屋の階数を数えた。四階、私のいる部屋より二つ下。ついでに横方向ではどの辺りに位置するかも確認する。
彼女は今夜もふらふらと揺れている。いつだってその姿はどこか楽しそうで、春風に揺れる花を思わせる。何がそんなに楽しいのだろうか。
私があんな風に心地よさげに身体を揺らしていたのは随分と昔のことだと思い返す。幼い時分は自分や世界の在り方を無邪気に肯定できていた筈だが、気づけば仕事の責務だの将来の不安だので、随分と身を屈める機会が多くなった。己の在り方を振り返ることのできるのは、このベランダにいる間、彼女を眺めている間だけだ。
秋の入りを知らせる涼風が頬を撫で、紫煙を靡かせる。すると、微かに花の匂いがした。煙草の臭いに紛れながらもはっきりと感じる。六階にまで届く匂いの元に覚えがない。隣の部屋主が芳香剤でも置いたのだろうか等と頭では考えてみるものの、心のどこかでは、それが彼女の匂いだと確信していた。
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