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六、
ある日の休日のことだった。日差しが傾き始めた時間に、部屋でぼんやりと過ごしていた。外に出かける気力もなく、楽しいこともなく。ただ来週の仕事を乗り切る為の体力回復にのみ努める時間。
そんな停滞する空気を突き刺す様に、インターホンが鳴った。私は手遊びに触っていたスマートホンを置き、ディスプレイ越しに来訪者を確認する。あるいは彼女ではないかと期待しながら。
しかし、そこに映し出されていたのは見知らぬ若者だった。高校生か、あるいは中学生かもしれない。部活帰りなのか土曜日だというのに制服を着て、共同玄関の前に立っている。幼さをまだ残した彼の表情は緊張を帯びていた。
私はその来訪の意図がわからず、怪訝に思いながらマイクをオンにした。
「はい、どちら様でしょうか」
彼は私の声に驚いたのか、その顔をさらに強張らせた。しかし、そのまま沈黙を続けている。暫く待っていたが返答はなく、あるいは何かの悪戯か罰ゲームかもしれないと思った。
「あの」
「すみません」
焦れて声をかけようとした時、少年は大きな声で私の言葉を遮った。彼自身も自らの声の大きさに戸惑った様で、続けて小さくすみませんと言った。
「あの、一つ質問があって」
それから彼は、自らの言葉を一つ一つ確かめる様に、はっきりと区切りながら言った。
「深夜、いつもあなたの部屋にいる彼女。彼女は誰なんですか」
私は答えられなかった。そのまま接続を切った。耳を覆う静寂が随分と五月蝿かった。あの寝苦しく目覚めた夜に見た夢を、今ははっきりと思い出せた。いや、そもそもあれは夢だったのだろうか。
あの時に出会った山城という男も今の私と同じだったのだろう。ある時屋上からどこかの部屋にいる彼女を見かけて、明かりが消えた後も彼女を探していた。きっと彼も誰か別の人物に尋ねたのだ、彼女の居場所を。本来は探す必要などなかったのに。
何かに背中を押されているかのように、私の意思とは無関係に足が動き出した。まるで幼い子供が自分の傑作を見せたがっているかの様に、私は連れていかれる。気づけば花の香りが強く、強く漂い室内に充満していた。匂いに操られるようにして、私はベランダの鍵を開けて外へ出た。
まだ午後四時を過ぎたばかりのはずなのに、外は夜だった。
先ほどまで明るかった世界は、あからさまに自らの様相を変えていた。車の往来の音も、葉擦れの音もない。遠くの地平には光の列が並んでいたが、それらは不規則な明滅を繰り返していた。人工の光というより、まるで生き物が蠕動しているようだ。
一方で近くの建物にはただの一つとして明かりを灯してはおらず、向かいのマンションはただの真っ黒なシルエットでしかなかった。その覆い被さるような漆黒の真ん中に、暫くしてぽっと明かりが四角く灯った。暖色の窓明かり、そして彼女の後ろ姿。懐かしい姿。
その隣の部屋の明かりも灯る。その内装は全く同じだった。同じようにカーテンを開け放して、そこにも彼女がいた。次の部屋も、その次の部屋も。光源は増殖して、そのいずれにも彼女がいる。やがてマンションの窓全てにぎっしりと彼女たちは並び、光の中で一斉に揺れている。一つの巨大な生き物のように、ゆらゆらと、ゆらゆらと。
あのマンションには元々、どれだけの人がいたのだろう。彼らはどこにいってしまったのだろうか。そしてこのマンションではこれから、どれだけの人がいなくなるのだろう。山城という男から私に感染した狂気はどこから来たのだろうか、そして私からあの若者に感染したあの明かりはどこまで拡散するのだろう。目の前を埋め尽くす彼女の光を見ながら、脳の奥をどろりとした何かに浸しながら、私はそんなことを思っていた。
何かを感じ私は振り返った。そこにはガラス戸を一枚隔てた先、部屋の中に彼女がいた。すぐ近くに、アウトドアチェアに座って背を向けて。まるで青い鳥だと私は思った。求めていたものは存外に近くにあるものなのだ。
彼女は立ち上がる。ふらふらと揺れながら、ゆっくりと回転し、正面をこちらへ向けてくる。ずっと焦がれていた彼女の相貌が間もなくわかる。
それを待っている私の感情は、底知れぬ恐怖なのか、あるいは至上の歓喜なのかは自分でもわからなかった。
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