好計の夫婦

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「着替えの場所はどこにあるのかしら?」 「多分あそこだろう、窓の横の壁にドアがあるだろう。あの中がクロ―ゼットになっているじゃないのか?」 「ああ、あそこね。そうみたいだわね。着替えて来るわ」  夫はいそいそと部屋から出て行った。私は気持ちもそぞろに窓の横にあるドアを開けた。  やはりクローゼットだった。なんと十畳程度の広さだ。どの壁にも様々なタイプのワードローブが並んでいる。ワイシャッ、スーツ、ジャケット、パンツ、等々、様々な男物の高級服で埋め尽くされている。あの社長が身に着けるのか、なるほど、こういうことなのか、羨ましい。夫とは違うのだ。いつも着ているもの、殆ど着ないもの、まったく着ないもの、ああ、一目瞭然だ。夫のだらしなさが嫌になってくる。  私は好奇心のあまり目の前にある小さな引出しを開けた。引出しの中には男物の下着が幾重にも整然と重ねてある。夫の下着しか知らない私は、あの社長が履く下着がどのようなものなのか気になり、その重ねられた下着の束を一枚づつ手で(めく)っていった。すると私は不思議な匂いに眩暈(めまい)がしそうになった。堪らず私はその下着の束に鼻を近付けてみた。オーデコロンの匂いなのだ。仄かにタバコの葉の香りが漂っている。これまで嗅いだことのない匂い。なぜか私は社長が現に着ている下着の中に潜り込んだような錯覚に陥った。体臭すら匂って来るような、社長の肌の匂いそのものを嗅いでいるような錯覚。私を熱き恍惚の迷宮に誘い込む、夫にはない危険を秘めた知性と気品と野生を放つ匂いに。  私は意識も朦朧に(なお)も下着の束を捲り続けた。すると一枚の眞白い薄地のブリーフが指に絡まった。そのブリーフがタバコの葉の香りの在処だった。私は自分の臭覚が狂ってしまったのではないのかと不安になり、自分の鼻の頭で直接そのブリーフを撫でてみた。  撫でているうちに、なぜか私は社長の秘密を知ったような錯覚に陥った。玄関先で社長が私の胸元をちらつと見つめたとき、どこか興奮を押し殺し、顔がやや紅潮していた光景が脳裏によみがえったのだ。無意識に、私はこれで「おあいこよ」とつぶやいてしまった。それから私は引出しから下着を一つ一つ取り出し、そのお返しに、私の胸、脇、腹、私の悉くの肌に擦り付けては元どおりにして引出しに仕舞った。私の肌には仄かにタバコの葉の残り香が染み付いていた。初めて夫ではない男の肌の香りが…。  窓から見える浜辺沿いの夜景が気怠るそうに点滅していた。どこか透明な乾いたこの海辺は、人の世の気楽を持て余しているように思えた。私はこれから始まる夜の物語が待ち遠しくてならなかった。私は別の女になるのだ。そして、もうこの夜景は私のものだと呟いた。この宵闇に包まれた別荘は私が遂に漂着した愛の島、シテール島なのだとも呟いた。
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