その一片の、恋の行方は

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 俺は、今日も煙草を吸えないでいる。  なぜかというと、俺の憩いの時間を堂々と邪魔しに来る生徒が、横にいるからだ。 「ちょっと先生……どうにかなんないの? そんなんじゃ誰もお嫁に来てくれないよ? せめてYシャツ、アイロンかければ?」  と言った生徒、伊香(イコウ)ソラは、寝転んでいる俺の隣に腰かけて、細い目を俺に寄越している。  二年生を受け持っている俺は、もちろんこの子の担任ではないし、授業も担当していない。名前だけの生物部顧問をやっているが、伊香は生物部でもなく、部活にすら入っていない。 「プライベートじゃモテるんでね、ご心配なく。」 「またまたぁ~、見栄(みえ)はってもいいことないって、高梨(たかなし)のおばあちゃんが言ってたよ。」 「誰だ、それ。」  突如でてきた聞き覚えのない名前に、俺はすぐさま聞き返した。 「同じマンションに住んでるの。毎朝、近所の散歩しててね、すんごい元気。」 「あっそ。」  と、適当に返事をするのも、いつものこと。すると、さわさわとそよぐ風が数枚の桜の花弁を運んできて、伊香の周囲に舞い落ちた。 「ていうかここ、来ないでくれない? 俺の貴重な一服休み、邪魔しないでくれよ、頼むからさ。」  昨今、喫煙者は肩身が狭い。特に子ども、しかも生徒の前で煙草を吸ったなどと保護者に知られたら、苦情の一つや二つ入りかねないのだ。 「気にしないから吸えば? 一本頂戴なんて言わないし、興味ないからさ。」  と、言った伊香は、ここから去る気配が微塵(みじん)もなかった。 「あのね、そういう問題じゃないの。最近煙草は嫌われ者なの。生徒の前で吸ったなんて知られたら、下手したらクビになりかねないの。だから……、」 「大丈夫。私、口堅いし。」  そう言った伊香は、うーんと両腕を伸ばして、俺の隣にゴロンと寝転がった。  俺はその伊香を見ながら、しゅんと背中を丸めた。  貴重な昼休み。だらしなく寝転がり、空を見上げながら一服をする。それが職場での唯一の楽しみだというのに、最近はいつもこうだ。  なんでこんなに懐かれたんだか。  それが不思議でしょうがないと、横に寝転がった伊香をちらりと見る。下にジャージを着ているとはいえ、スカートで、こんなに大股を開いて寝転がるというのは、あまり美しくはないよなぁと思いながら、俺はまた、空を仰いだ。  するとそのとき、チャイムの音が鳴り響いた。 「あっ! も、こんな時間!? 先生、戻んなくていいの?」  それを聞いた伊香が、慌てたように起き上がる。チャイムにはブチッ、ブチッと、電気が切れるような音も紛れていて、俺まで焦りが伝染してきた。 「俺は空き。伊香は?」 「体育だよ……って、先生は空きあっていいね。生徒にも空きあればいいのに。」  だからスカートの下にジャージを履いていたのかと納得をし、屋上から体育館までの道のりを頭に思い浮かべる。 「間に合うか? 体育館まで遠いだろ。」 「今日は外。だから着替えてきてるんだよ……って、屋上(ここ)から飛べたら、すぐなのにね。」  屋上からはグラウンドがよく見える。たしかに飛び降りればすぐに着くだろうが、無事に辿(たど)り着けるわけがない。そう考えた俺の背中に、ゾクリと寒いものが走った。 「伊香……なんか悩みでもあるのか?」  伊香は、よっと立ち上がりながら、クスリと笑った。 「違うよ。子どもみたいだけど、ただ空飛べればいいなぁって思うだけ。せっかく同じ名前だし、それに……。」  と、空を見上げたまま伊香が言葉を止めた。そのときの伊香の横顔が、その表情が、何かに耐えているように見えた。 「じゃ、先生。あんまサボんないようにね。」  そう言った伊香の顔からは、痛そうな表情は消えていた。 「……サボったことなんてありません。」 「どうだか。」  ひらりひらりと手を揺らし、伊香が背を向けて走っていった。そして、伊香が屋上の戸の前に立ったとき、また、チャイムの音が大きく響く。 「げっ!」  と、伊香が大きく叫んだ。その可愛(かわい)らしさの欠片もない伊香の声に、俺はついつい、口をおさえた。
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