第8章:憎しみを断ち切るアルテア(1)

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第8章:憎しみを断ち切るアルテア(1)

 本当にこれで良かったのだろうか。  今になってもエレの脳内ではその問いばかりが繰り返されていた。答えを返してくれる者はいない。自分自身さえも返せない。ただ困惑に満ちた表情をして、鏡の中から花嫁衣装の自分を見つめているばかりだ。 『お互いの敵をいぶり出す為に』  レイ王はそう言った。その為に彼が用意したのは、十三年前に悲劇が起きたアイドゥールで、レイとエレの結婚式を行う事だった。  打ち捨てられていた国境の街と街道を早急に整備し結婚舞台を造り上げ、セァクからヒョウ・カ皇王や重臣を招いての婚儀。イシャナの国中から民が集って盛大な式典になるとの噂は、たちどころに広まった。  準備に一月。その間レイ王がエレと接見する事は無く、エレはお針子達に囲まれ、採寸から仮縫い試着まで、花嫁衣装の制作に追われていた。  プリムラが時折顔を出して、気が紛れるように様々な話をしてくれた。それは非常にありがたいものではあったが、それで鬱屈した気持ちが晴れきった訳ではなかった。  インシオンの行方さえ誰にも訊けぬまま、一ヶ月は飛ぶように過ぎ、そして婚礼の日はやって来た。  抜けるような蒼天にぽん、ぽん、と音を立てて花火が上がり、白い煙が上空の風に流されてゆく。アイドゥールに集った人々は老若男女問わず誰もが輝いた顔をして、国王が迎えた花嫁の顔を一目見ようとごった返していた。  急ごしらえで再生されたアイドゥールの大使館の奥。天空に向かって手を広げるような屋外舞台を式典会場にして、イシャナ王お抱えの楽団が厳かな音楽を奏でる中、結婚式は執り行われていた。  細かい花の刺繍が胸元からスカートの裾まで施された真っ白い花嫁衣装に身を包み、深々とヴェールをかぶったエレは、同じく白い式典衣装をまとったレイ王の隣に立って、愛を誓う祭壇に向かって粛々と歩を踏み出す。  両脇の賓客席をちらりと見れば、イシャナ王妹プリムラや、セァクから招待されて久しぶりに顔を見るヒョウ・カ皇王の姿がみとめられる。プリムラはきゅっと唇を引き結んで真顔でこの式典を見守っている。ヒョウ・カは、相変わらずローブにすっぽり姿を隠して影のように寄り添うソティラスを従えて、ひどく心配そうな顔でエレを見つめていた。  そんな目で見られたら、自力で戦い抜いてみせると誓った決意が揺らいでしまう。エレの象徴でもある赤い花を中心に彩られたブーケを握る手がふるふると震えた。  夢を見ていた。今この隣に立つのがあの人だったら、と。あの人が相手だったら、永遠の誓いを立てる事に一寸の躊躇いも無いのに。あの人に刻まれた肩の傷跡には念入りに白粉(おしろい)がはたかれ、ひた隠すようにヴェールの下におさまっているが、その思いを胸に浮かべる度に、まだ開いて血が流れているかのように熱を持ってうずく。  レイがどんなに同じ顔をしていても、やはり彼とは別人だ。あの黒髪が、赤い瞳が、憎まれ口が、時折見せてくれた笑顔が、こんなにも恋しい。  顔を伏せ、岸水寄せるのを必死にこらえていると。 「泣くな馬鹿」  レイに果てしなく似ているが決してレイのものではない耳慣れた声で小さく叱咤されて、驚きに涙は引っ込んだ。花嫁がいきなり花婿を振り仰ぐ訳にはいかない。横目でうかがって、エレはその名を叫びそうになるのを必死にこらえた。  碧ではなく、赤い瞳が呆れた様子でこちらを見ている。金髪なのはかつらだったという事か。 「騒ぐなよ」  口の前に指を立てて彼は囁いた。 「今騒いだら、レイの計画が水の泡だからな」  うなずく代わりに、毅然と前を向く。しかしその口元は抑えようも無くゆるんでしまって仕方なかった。嬉しい。とてつもなく嬉しい。さっきまでの、重石がついていたのではないかという歩みはどこへやら、スキップすらしそうな軽い足取りでエレは祭壇の前へと臨んだ。  フェルム大陸創造の女神ゼムレア像の前に立ち、二人同時にすっと顔を上げる。その時。 「お待ちください」  しんと静まり返った場に一石を投じるように高らかに声をあげる者がいた。皆の視線がそちらに向く。  手を掲げたのはセァク側の来賓席にいた家臣の一人だった。 「この婚儀に異議を唱えます」  ざわ、と式典会場がどよめく。 「メルク殿、何故かね。神聖なこの式典を中断させるとは」  祭壇前に立ち今まさに式を執り行おうとしていた司祭が眉をひそめて問いかけると、商人あがりの文官は、でっぷりした顔にふてぶてしさを備えて、勿体ぶるように口を開いた。 「この結婚自体が茶番でしょう。我らがセァク皇王を招いておきながら花婿に代理を立てるなど、レイ王は何をお考えなのやら」  観衆の動揺は更に増し、どよめきが大きくなる。傍らを見上げれば、インシオンは赤の瞳でメルクをぎんと睨みつけていた。しかしその瞳が不意にこちらを向く。「やれ」という無言の合図を受け取り、エレはしっかりとうなずくと、ヴェールを自分からはぎ取った。 「茶番を演じているのはあなたの方です」  突然花嫁が大声をあげた事で、今度は全員の視線が一斉にエレへ向く。インシオンがこちらの手の中に託した物を見るまでも無く、それを唇につけて素早くアルテアを紡いだ。 『ここにいる、あらゆる人の嘘偽りを封印します』  言の葉の石を再び得たアルテアの巫女に応え、虹色の蝶が大乱舞を起こす。式典会場に居合わせる人々は、自分の身体に吸い込まれた紫に光る蝶に驚きの声をあげ狼狽えた。 「慌てないでください!」  エレの宣誓が鶴の一声となって、ぴしゃりと水を打ったように場が静まり返る。 「メルク。あなたはイシャナの一部の家臣と結託してこの結婚を仕組み、そしてわざと破談にして戦争を起こし、益を得ようとした。そうですね」 「ち、ちが……ぐうう」  商売人は戦争が起きれば武器の流通で莫大な富を得る。エレのアルテアによって嘘をつけなくなったメルクは、否定の言葉を出せずに低く呻いた。 「イシャナ側の関係者は、ダーレン少将に、ヘルベルト財務大臣、それから」  エレがよどみ無く次々と名指しするイシャナの家臣達が、ざっと顔色を青くする。 『ダーレンは、元々は反セァク派の先鋒だったのに、ある日突然掌を返したように、お兄様にあなたとの結婚話を持ちかけたんですのよ。ヘルベルトなんか、お兄様がさっさとくたばるのを期待して、ちんけな自分の息子をわたくしにあてがおうとしていたくせに、少将の腰巾着みたくなりやがりまして。ああ、それに』  冷静に考えると答えは簡単に出た。この一ヶ月、プリムラがエレのもとを訪れて話をしていたのは、全くの道楽ではなかった。その中に混じっていたイシャナ家臣団の噂話。答えはその中にきちんと織り込まれていたのだ。 「あなた方を扇動していた黒幕の名前を、今ここで明かしていただきます」  エレが凛とした声で宣告すると、民衆の追及の視線が彼らに突き刺さる。彼らは一様に蒼白な顔をしてぶるぶる震えていたのだが、まず動いたのはダーレン少将だった。 「うっうっ、うああああ!」  彼は狂ったように吼えると、腰に帯びていた剣を抜き、何かに取りつかれたかのように傍らのヘルベルトへ斬りかかった。突然の血しぶきに、会場が騒然となる。  だが惨劇はそれで終わらなかった。犯人として名前を挙げられた者は次々と武器を振るって共犯者を血の海に沈め、それで飽き足らずに、最後は自分の喉に刃を突き立てて果てた。  あっという間に凄惨な修羅場と化した結婚式場に、ぱん、ぱんと乾いた拍手の音が響き渡る。 「敢えて黙ってここまで見ていましたが、それなりに見事でしたよ、エン・レイ様。いえ、エレ」  黒いローブの下から嘲りに満ちた賞賛を贈るのは、ヒョウ・カ王に傍づいているソティラスだった。  不快な時に口元を歪める癖はやはり同じだ。確信は今得た。 「話してくださいますね」  相手をひたと見すえ、エレは言い切った。 「ソティラス、いえ、ソキウス」 「……こんな小細工をせずとも、全てをお話ししますよ、エレ」  諦めにも似た溜息をついた後、彼がフードを引き下ろす。その下から現れた顔に、主にセァク側から驚きの声があがる。透き通るような白髪に灰色の瞳を持つ、イシャナ人。眼鏡こそかけていないが、共に旅した仲間、ソキウスその人だった。
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