移ろい

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移ろい

    1  雪春(ゆきはる)はあるものを(わき)の下から取り出した。 「はあ……三十八度二分」  思わず、ため息が(こぼ)れる。  いつものことだ。そう、いつものこと。でも、今はタイミングが悪すぎる。この時期は駄目だ。決して病気になっちゃいけない。  雪春はこの春、高校一年生になった。入学してからまだ三日目。絶対に休みたくなかった。今休んだら後れを取るからだ。クラスではグループができ始め、きっと溶け込めなくなる。もうそんなのは絶対に嫌だった。  雪春は小さい頃から病気がちで、よく風邪を拗らせており、病院にも頻繁に通い薬漬けの日々だった。  不意に部屋のドアが音を立てる。 「入るぞ」  低めの声がドア越しに聞こえ、そのまま開かれる。 「どうだ、体調は」 「ちょっと熱があるだけ」 「見せてみろ」  雪春は渋面を見せるも、体温計を渡す。 「ちょっとじゃないだろ。今日は学校を休みなさい」 「待ってよ。俺、大丈夫だから」 「駄目だ。また風邪拗らせて、入院する羽目になるぞ?」 「あれは、小学生の頃だろ? しかも、その時は肺炎だったし。大げさなんだよ」 「駄目だ。安静にしてろ。父さんは、もう仕事行かなきゃだ。なんか、食べたいものとかあるか? あるなら買ってくるぞ。帰りは何時になるか分からないけど、コンビニくらいならいけるから」 「いらない」 「わかった。じゃあ、行ってくる。あ、ちゃんと薬も呑むんだぞ」  父親の誠人(まこと)の話し方は優しいが、どこか冷めている。感情が届いてこないのだ。枯れ葉のように湿り気がなく、乾いている。坦々と取ってつけた科白(かはく)を吐いているみたいだった。  ベッドに倒れ込む。枕に顔を突っ伏して、嘆いた。うまくいかない。高校生活は、今までできなかった青春というものを謳歌してみたかった。小学生の時も中学生の時も休みがちで、病気と友達だった。内向的で、臆病で、自分を表現することが苦手で、親しい友達を作ることもなかなかできずにいた。  カーテンが外光を透してくる。誠人が会社に行くと、いつも家の中が空っぽになった感じがした。世界と切り離されて、一人っきりになってしまったような感覚。きっと、この静かすぎる空間がそうさせるのだと思う。もう、この感覚にはうんざりだった。  もう一度、温度計に手を伸ばす。奇跡的に下がっているかもしれない。腋の下に差し込み、じっと待つ。――ピピピと聞き慣れた電子音が鳴ると、待ってましたとばかりにそれを引っこ抜いた。 「上がってやんの……」  すると、身体(からだ)は単純なもので、急に怠くなり始め、気息(きそく)も荒くなる。顔が火照り出し、ぼーっとしてくる。  いっつもこうだ。  居間にある風邪薬を目指して歩いていくが、急な勾配(こうばい)を歩いているかのようにきつい。  ああ……節々が痛い。  かぶりを振ってみる。  もう、こんな身体いい加減どこかへ捨ててしまいたかった。  なんとか薬を手に入れると、それを呑みまた自室へと引き返す。  ベッドに倒れるように横ざまになると、意識が次第にぼんやりと(おぼろ)げになり、そこで、ぷつりと途切れた。  ふと、瞼を開ける。遠くから学校のチャイムが聞こえた。スマホの時計を見ると、午後三時三十分。寝たおかげで、(わず)かに身体は楽になったが、気は重い。このまま明日も明後日も休んでしまったら、一人、クラスに取り残されてしまうだろう。ぼーっと空ばかり見てる学校生活が始まってしまう。もう、そんなのは懲り懲りだった。  きっと、明日は……。いや、絶対に明日は学校に行ってみせる。  雪春は明日のために、もう一度気合を入れて眠ることにした。
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