こいわずらい

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こいわずらい

    1  雪春は自分の名前があまり好きではなかった。雪と春がちぐはぐで嫌なのだ。  しかし、この名前にはある由来があり、それは小学校五年生の頃に父親から教えてもらった。当時は、まだ父親の帰りも早く、よく一緒に夕食もしていた。 「父さん。俺の名前って変じゃない?」 「どこがだ?」 「だって、雪って春に降らないでしょ? なのに、こんな風にくっつけちゃって、今日クラスのやつにからかわれたんだ……」 「そんなこと気にするな。その名前は母さんがつけてくれたんだよ」 「母さんが!?」 「ああ」 「由来とかあるの?」 「あるぞ」 「聞かせて!」 「分かった」  父親は箸を置くと、昔を思い返すように視線を辺りに漂わせた。 「お前を生むとき、かなり難産だったんだ。深夜、二時に陣痛が始まって朝の八時までかかった。父さんはその間ずっと、片時も離れず美紀(みき)(母親)の手を握ってやった。苦しそうにする美紀を見ると心が痛んだし、辛かった。でも、お前は待望の子供だったんだよ。八年という長い間、子供が出来なかったんだ。悩んだことも喧嘩したことも沢山あったが、お前が美紀の腹に授かった時は、本当に嬉しかったよ。二人で泣いて喜んだ。でな、お前が産声を上げた時だ。ちょうど分娩室の窓から外が見えて、雪が降っていたんだ。最初は驚いたよ。四月に、それも桜がまだ咲いていた時期に雪が降ったんだ。奇跡かと思った。お前が授かったことも奇跡みたいなものだったから、美紀がこう言ったんだ。この子は奇跡の子よって。名前は雪春にしましょって」 「お母さん……」  雪春は目尻に熱いものが込み上げ、唇を噛みしめる。父親はそんな自分の頭を優しく撫でてくれた。  今までずっと、この名前が嫌いだったけど、今はそんな自分が許せない。母さんの思いがつまった大事な名前だったのだ。 「教えてくれて、ありがとう。お父さん」 「ああ、お前は、母さんと父さんの自慢の息子だ」  顔が熱くなる。照れくさかった。でも、自分は特別なんだって思えた。  そう思えた。  その時は、思えていたんだ……。  スクールシャツのボタンを留める手が止まった。  しかし、あることがきっかけで父親と昔のように話すことができなくなってしまった。今は避けたくなるくらい気まずい関係だ……。父親を(いと)うなんて、本当はしたくない。  雪春は眉をひそめる。  もう昔のような関係には戻れないのだろうか。  戻れない? いや、戻ろうとしないのは自分の方か……。  雪春は学校の支度を終えると、伽藍堂(がらんどう)のように寂しげな家を後にした。  気を取り直そう。今日から、陸上部のマネージャーだ。ドキドキとワクワクが混同している。しかし、あくびは出る。昨日あまり寝れなかったせいだ。明日のピクニックが楽しみで、目が冴えてしまう子供の気分だった。
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