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一人にしてください。
目を覚ますと、真っ白な世界が広がっていた。
(……病院?)
今まで入院などしたことはないが、おそらくそうだ。
今時テレビでも何でも見ていれば、行ったことのない場所、直接見たことのないものがどんどん記憶に蓄積される。むしろ知識ばかりで経験がないことのほうが多いくらいだ。私はもう頭の中だけならば、どれだけの世界遺産を見て回ったか。もはや行く必要すらない。それは私がテレビで見ようが、直接見ようがたいして差はないと思っているから。だから好きな歌手のライブにも行きたいとは思わないし、スポーツ観戦したいとも思わない。
テレビの前で充分。人ごみや熱気は嫌い。だってそっちの方が落ち着くから。
一人の方が、落ち着くから。
鉛のように重い身体を起こし、辺りを見渡す。自分の寝ているベッド以外何も無い。個室。そこは無菌室かと思うほどに綺麗で真っ白だった。
何もない。物も。人も。
はっきりとしない意識を無理やり起こそうとした。しかし思うように頭が回らない。自分は何故、病院で寝ているのだろう。事故? 病気?
いや、そんな覚えはない。というか、何も覚えていないといった方が正しいのか。
でも、何か哀しい夢を見ていた後のような感覚だけが残っている。
ぼーっとする。どこか自分の脳が働くことを拒否しているようにも思えた。
コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
この病室は個室だ。だから今ノックした人間は私の関係者だろう。両親か。いや、病院なのだから医者か看護師という可能性の方が高い。じゃあ看護師で。と、そう訪ねてきた人を予想してみる。
病室に入ってきたのは看護師――だけではなかった。もう二人、背広を着た男性が入ってくる。片方は若く誠実そうな、もう片方はいい感じに皺が入った初老の、まるでテレビドラマのコンビ刑事役で出てきそうな二人だった。
看護師は私を見て、意識を取り戻していることに気付いたのだろう、慌てて小走りで近づいてくる。そして気分はどうだとか、一言二言質問をした後、後ろの壁についているナースコールを押して医者を呼んだ。すぐに駆けつけた主治医であろう人間は、私の身体を診察し、
「大丈夫そうですね。特に身体に異常はみられません」
と、そう告げた。
告げた後、病室の入り口の側で突っ立っていた背広の二人組に顔を向け合図をするように軽く首を縦に振った。病室を後にする医師たちと入れ替わるように背広の二人組が私のベッドの横に来て、来客者用の椅子に腰をかける。初老の古臭いタイプの刑事のような方が、私を見て、そのいかつい顔に似合わない笑顔を見せる。皺がまるで葉脈のように浮き出てくる。
「黄泉路蜜さんですね」
若い方の男性が言った。
「……はい」
そう、それが私の名前。
しかしこの男性が誰なのか覚えていない。覚えていないのか、初めから知らないのか、今の私には判然とはしないが、今の質問からするに初対面なのだろう。そう思い、あなたたちは誰ですか、そう尋ねようとすると、向こうが先に背広の内ポケットから手帳を取り出し名乗った。
「警察です。少しお話を聞かせていただいて構いませんか」
予想通り、警察の二人だった。なんともわかりやすい。
何の話かわからず、私が何の事かわからないと言うと、彼らはまず丁寧に状況を説明してくれた。 それを聞いた私の反応が薄かった事に、少し動揺したのは向こうだった。それでもすぐに切り替えて、次々と質問を投げかけてくる。いくつかの質問をし終えた後、たいした収穫がなかったのだろう、若い警察の男は少し嘆息して、
「そうですか、ありがとうございます。また後日お話を聞かせてもらうことになると思いますが、よろしくお願いします。それでは身体にお気をつけて」
と、まるで電車のアナウンスのように決まりきった台詞を事務的に吐いて帰っていった。いかにもな作り笑顔も、白々しい親しみ易さも一級品だった。結局、終始話していたのは若い方の刑事さんで、初老の刑事さんは口元の皺をしわくちゃにして微笑みながら、「お嬢ちゃん、大変やったなぁ」と一言つぶやいただけで、それ以外私を見ることなく難しそうな顔をして考え事をしていた。
しかしやっと思い出すことができた。自分の置かれている状況を。
いや、実際には覚えていないのではなく、記憶にないのだから仕方がない。
つまり思い出したのではなく、理解した。
「そっか……パパもママも、死んじゃったんだ」
二人の遺体が自宅で発見されたらしいが、私だけ同じ場所に倒れていながら、傷もなく気を失っていただけらしい。
らしいというのは、私自身が全く覚えていないから。
私が何故倒れていたのか、そして誰が両親を殺したのか、それを覚えていない。主治医の先生はおそらくショックからくる一時的な記憶障害だろうと教えてくれた。人間は嫌なことがあるとそれを記憶から排除しようとするらしい。それが過剰に働いたのだろうと。
まるでドラマや漫画でよく見るシチュエーションだ。見ている時は、そんなこと本当に有り得るのかと思っていたが、実際自分がそうなるとは思いもしなかった。
しかし実際なってみると意外と何も思わないものだ。何ももどかしくないし、何も感じない。頭がすっきりしている。何を忘れているかすらわからないのだから、何も感じられないのは当然か。
だからそれに関して考えるのはやめた。思い出すべきことならいずれ思い出すのだろうし、自分が嫌で忘れたことなら思い出せなくたっていい。
そして何より、そんなことはどうだっていい。
誰が、何で両親を殺したかなんてどうでもいい。
なぜ私だけ殺されなかったかなんてどうでもいい。
そもそも私にとって両親など、もうどうでもいい。
嬉しくもないが、悲しくもない。
それくらいに、どうでもいい。
死のうが生きようが。
殺そうが殺されようが。
存在しようが存在しなかろうが。
どうでもいい。
むしろその両親の記憶が消えなかったことが私にとっては一番ショックだった。人は嫌なことは忘れようとするのではなかったのか。いや、そうか。人間どうでもいいことほど覚えている。そういうことか。ならそれでいい。そう思える。
両親は殺されて当然だろう。警察にもそう言った。
両親は悪なのだから、両親に恨みを持っている人間は確実にいる。その言葉に対し警察も少し間を置いて「そうだね」と言った。だからおそらくというか十中八九、怨恨絡みの殺人だろう。むしろそうでない方が奇跡だ。
人を殺すのは良くないことだ。百人いたら百人がそう答えるだろう。でも私はこれでよかったのだと思う。悪はそれ相応の報いを受けるべきだ。
神の天罰が下ったのだろう――と、そこでふと苦笑してしまう。
(だったら……私は? 私はどうなるの?)
そんな自嘲的な考えが生まれた。
悪の権化であった両親。じゃあその悪意の塊から生み出された私は? 生まれた瞬間からの悪。悪意の結晶。悪意のサラブレッド。存在そのものが――罪。
その私はどんな代償を払えばいいのだろう。
私もいずれ死ぬのだろうか。殺されるのだろうか。
それとも、自殺しようか――そう考えて、ギュッ、と布団を握り締める。
私にとって特別、生への執着はなかった。そして普段からいつ死んでもいいと思っていたし、楽に死ねるものなら死にたいとまで思っていた。思っていた――が、両親の死に直面し、改めて死を真剣に考えると、身体は恐怖に打ち震えた。恐ろしいまでの寒気を感じた。
(いや……死ぬのは、怖い……)
死にたくは、ない。
でも、悪は何かを償わなければならない。両親がその悪意の代償として命を奪われたように。私は自分の存在の代償に何を支払えばいいのだろう。
(そうだ。自分の償うべき罪を、神様にお願いしてみよう)
クリスマスに、サンタさんにプレゼントを願うように。
死ぬのは怖いから、別の何かをお願いしてみよう。別の、罰を。
それなら一つだけぴったりのお願いがある。一見、罰のように思えるけど、私にとってそれは望むこと。苦しくない罰なら、そんなに嬉しいことはない。
あ――と、そこで一つ思い出す。
そうだった。それは私が持っている、記憶を失う直前の記憶。それはとても下らない、それこそどうでもいい記憶だから覚えている。
私は前にも、神様にお願いしている。
それは両親に話がある、と呼ばれ、そこである《真実》を告げられた日。
つまり、両親が殺された日。
その時、両親がどうしようもない悪だと知らされ、同時に自分の存在も間違ったものなのだと理解させられた。つまらなくて苦しい日常に息詰まっていた私は、唯一の安らぎの場であった家族すら信用できなくなり、泣いた。
虚構で彩られたクラスメイトとの友人関係。
唯一絶対の信頼をおいていた両親との親子関係。
どうしようもなく息詰まってしまった人間関係。
だから、私は神様に願ったのだ。
私を一人にしてください――と。
そうだ。そうだった。
そして思えば、私は願ったとおりに今、一人になれたではないか。なんてことはない。ただそれだけのことじゃないか。今の私は自らが望んだ状況にいる。
それは傍から見れば、不幸なのかもしれない。孤独は寂しい。両親の死は悲しい。
でもそれは私の望むこと。望んだこと。
これで私の罪が償えるなら、だったらもう一度神様にお願いしよう。
私はもう誰にだって忘れられたっていい。死ぬのは怖いけど、一人になるのは怖くない。私の存在を誰も快く思わないのなら、その存在を認識しなければいい。私に構わなければいい。私は自ら罪を背負おう。そして償おう。
こんなどうしようもないくらい愚かしく、どうしようもないくらい価値のない、そんなどうしようもない自分にできる、唯一の償いなのだから。
だから私は、喜んで永遠の孤独を受け入れよう。
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