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「黄泉路ッ!」
そう大きな声で名前を呼ばれ、目を開ける。そうだ、今は神学の授業中だった。
「……」
私は返事もせず、先生を見た。
「なんだその目は! 今当てたところを答えろっ!」
そんなに怒鳴る必要があるのだろうか。私以外にも授業を聴いていない人なんてたくさんいるのに。周りを見渡しても、寝ている人も何人かいる。
仕方ない、と教科書に目をやる。
しかし答えろと言われても聞いていなかったのだからどうしようもない。時間的にそこまで進んでいないだろうから、今開いているページなのだろうが、数学のようにわかりやすく問があるわけでもないので、何をどんな風に当てられたかさえわからない。
「……わかりません」
そう言うしかなかった。
「わかりませんじゃあないだろう! 聞いていませんでしただろ!」
どっちだって一緒だ。結局わからないのだから。
そのまま何も言わずに黙っていると、それが気に食わなかったのだろう。教壇に立つ眼鏡の教師は続けた。名前は……覚えてない。眼鏡でいい。
「ふんっいいご身分だな。主席入学か何か知らんが、こんな授業聴く必要がないってことか? お前は自分が高みにでもいるつもりか?」
たかが居眠りでそこまで言われることなのだろうか。
いや、まあいい。慣れている。いつもこうだ。所詮人は皆こうなのだ。何かを罵しり見下すことでしか優越感を得られない。所詮それを口に出すか出さないかである。汚い。醜い。
しかし私はそれを受け入れなければならない。そう言われても仕方の無い人間だから。
そんな人間すら綺麗と思えるほどの、汚さ。醜さ。
眼鏡はさらに続ける。どうやら今までのいろいろの不満を徹底的に私にぶつけるつもりらしい。それはもはやいち眼鏡――もとい、いち教師が生徒に行う行為ではなかったが、私ならいいと思ったのだろう。私もそう思う。
その罵倒は途中途中で日本語がおかしかったが、気持ちが高ぶって空回りしているのだろう。次第に聞き慣れてきて、耳にすら入らなくなった。
(神学、か)
高校の授業で神学があるのは珍しいのではないだろうか。大学やミッションスクールなら当たり前なのかもしれないが、うちのような普通の高校で神学を学ぶのは他に聞いたことがない。訊く友達もいないけれど。
ただ、この学校の神学は一般的なキリスト教だとか仏教だとかの宗教とは全く別の、この地域独自に信仰されている宗教について学んでいる。
それを《心道》と言う。
神道ではなく、心道。この地域独特の信仰宗教。その歴史は長く、数千年もの間続いてきた伝統的宗教である――らしい。
あくまで授業として習っているだけであり、私、というより今の日本の若者がそんな古びた考えを心から信仰しているわけがない。信仰しているものなどお年寄りぐらいのものだろう。そんな教えを大事に後世まで引き継ごうと、こうしてこの地域の学校に神学が取り入れられているわけだが、みんな神学なんて歴史の授業みたいにしか思っていない。しかも少しこの地域を離れれば全く使い物にならないのである。下手をすれば異端者扱いだ。誰が好んで学ぶというのだろうか。
この心道、端的に説明すると、神様は全ての人の《心》の中に存在するというもの。
その神様はその人によって異なり、百人いれば百通りの神様がいるという。信仰すべきは己の心の中の神であり、基本的に共通に信仰される神様はいない。
ただし、唯一その全ての神様を生んだ、母なる存在――《白神》だけは、共通の認識の存在となるらしい。
白神は他の神々を生んだ、のではなく正確には神々に分裂したとされている。何が正確なのか甚だ疑問だが。
神話によると、かつて増えすぎた人類が争いに争いを重ねた時代、食わなければ食われる時代が人々の心をむしばみ、結果全ての人間の心が黒く淀んでしまったらしい。
心が黒に染まった人間、それは理性のないただの獣であり、武器兵器を扱える分余計に性質たちが悪かった。そこに世界の終わりを見た白神は、自らの光輝く身体を無数に分け、黒に染まりきった人々の心に入り、その黒い心に白い光を与えた。
そうして人は理性を持つ事になったのだ。
つまり私たちの心の中にいる神は、白神の一部。
故に、母なる存在。
――つまらない話だ。そもそも心とは物理的に存在するものではない。
しかしそんなありふれすぎて記憶にも残らないような宗教話の中で、子供の頃の私が強く興味を惹かれた部分がある。
それは、全ての人の心には《色》がついているという事だ。
白神が人々の心に乗り移った時、人は心に光を浴びて、独自の色を持つようになった。そこに同じ色など存在せず、人の数だけ違いがある。要は色=個性、ということ。
つまり、《心》に《神》が住み、それらには独自の《色》が着いている、らしい。
その色は現在では先天的――生まれながらに人の心の色は決まっており、それを決めるのは両親の血など、生まれる前の事象――であり、変えることはできないとされている。
それは私が自分を変えられなかったように。
それは人が運命から逃れられないように。
そして善人はその心の色がより鮮やかに輝いているらしく、逆に悪人は濁り汚く曇っているとされている。
つまり心道の概念を要約すると、全ての人間は違う。心の色が綺麗な人は良い人だし、心の色が汚い人間は悪い人間である。それは生まれた瞬間から決まっているし、死ぬまで変えられない。だから己の価値にあった生き方をしなさい、と言うこと。
小難しい話をすっ飛ばして要約してみればなんてことはない。
人はなるようにしかならない――というだけだ。
こんなものを数千年も続けてきたのかと思うと、正直馬鹿馬鹿しくも思える。おそらく起源は太陽を神として信仰した宗教が派生して心道に成ったというのだから、なんともありきたりな宗教である。
人は太陽――つまり白神に憧れ、それは必然、嫉妬になる。嫉妬した人間は、その神なる太陽を自らの地位まで堕とし、神と同格になることにした。
所詮その程度の小賢しい理由でできた宗教だろう。
人の本質など、その程度のもの――と、確かにそう思う。そして私も神様など本気で信じてはいない。宗教は人類の発展の中で必然的に生まれてしまった、人類の言い訳の結晶体でしかないだろう。心の逃げ道として、宗教は生まれた。そう思う。
心の逃げ道――つまり心道。嘘だけど。
冗談はおいておいて、でもその気持ちが私にはわかる。
私もかつて、神様に救いを求めた人間だから。
一人になりたい――と。
しかしその願いは叶わなかった。両親からは解放されたけれど、私の存在は今も人の中。だから私は、それを心の底から心酔するわけではないけれど、しかし、心の逃げ道としての神様は存在していて欲しい、とそう思う。あくまで願望だけれど。
こんなふうに私はこの心道をほとんど全く信仰しているわけではないけれど、ただ心に色が付いているというのはロマンチックだと思ったのだ。
小さい頃の私は、心に色が着いているという話を聞いて、自分は何色なんだろうと、とてもわくわくした覚えがある。それを見た母が、「あなたは優しい子だから絶対に綺麗な色をしているわ」と言ってくれたのを覚えている。とても優しい言葉で、私は何の根拠もないのに大好きな母親の言うことだからと、素直に信じて喜んでいた。
自分の存在の醜さを知るまでは――。
今は思う。きっと私の心の色は黒く汚く淀んでいる。汚染された川でも、醜く地を這う害虫でも比べ物にならないくらい汚れきった色。真っ黒。光の届かない色。
母の言葉に騙され、愚かしい希望を持ってしまった自分が恥ずかしい。
「――ふん。所詮、蛙かえるの子は蛙か」
話を聞かずじっと考え込んでいると、眼鏡教師のそんな言葉に意識を引き戻される。
蛙の子は蛙――何も、言い返せない。それが正しいから。
何度も聞いてきた言葉。別に今更何も感じはしない。そう。鳶は鷹を生みはしない。蛙の子は蛙で、鳶の子は鳶。腐っても鯛。なら私は新鮮でも汚染魚ってとこかな。上手くはないけれど。ていうか語呂が悪すぎる。それじゃあ、蛙や魚に失礼だ。
私はそれよりも、もっと汚い。醜い。
「先生。それはアカデミックハラスメントってやつですか?」
と、不意に眼鏡ではない第三者の声が聞こえた。顔を少し上げて、声のした方を見る。
それは教室の中心に座っている背の高い黒い髪をした男子生徒の声。確か今朝堤防で見かけた男子だ。名前は、えーっと――
「なんだと、皇子代?」
そうだ。あれは皇子代。
皇子代黎だ。
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