笑顔

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 皇子代黎――仰々しい名前だな、と思ったことがある。人のことは言えないけれど。  いつも数人の友達と賑やかに楽しそうに過ごしている。  本当に、楽しそうに。  あれが普通の高校生活と言うものだろうか。私には到底理解できない感覚だ。そんな状況を少しは羨うらやましくも思ったりしていたが、うるさい人たちだなあ、それが主な印象。  しかし、何故?  なじられている私を見かねて助けようとしたつもりだろうか。そんな事に何の意味もないのに。私は何とも思っていないし、向こうだってそれで気分が良くなるのだから、この状況に反発する理由など何も無いではないか。  むしろただの迷惑だ。状況を悪化させないで欲しい。これは私の背負うべき罰。これを私は受け入れなければいけないのだ。それが贖罪。だから、邪魔をしないで。それにそんなことをしても教師からの印象が悪くなるだけ。下手をしたら罰則でも喰らう。  ……ううん、違うか。これが人だ。偽善者だ。  ただ正義の味方を気取りたいのだろう。人とはそういうものだ。どうせすぐ諦める。  偽善。同情。下心。  私も両親が死んでからいろいろ辛い目にあったが、彼のように私の味方をしようとしてくれた人も何人かいた。  ――しようとしてくれた人、は。  その全てが私のことを純粋に救おうとしたのではない。  ある人は偽善で私を救い、自己満足に浸るだけ浸って去っていった。  ある人は同情から私を助け、すぐにその立場の重さを知ると去っていった。  ある人は下心から私を護り、私に気持ちがないことを知ると去っていった。  そう。これが人なのである。何も責めるつもりなんて無い。むしろそれこそが純粋な気持ち、なのかもしれない。私の考えは少し理想的すぎるのかも。人が純粋という言葉を作り出したのだから、その言葉はあくまで人という能力の範囲内でのものだと考えなければいけないのだろう。私の想像する純粋と一般的に定義される純粋は次元が違うのだ。私の想像する純粋は、人としては何も無いに等しい。まさに純心無垢。しかしそんな人間がいるはずがない。だから人がその人としての醜い部分を見せないように見せないようにして、欲望を満たそうとする。その方が純粋で、自然なのかもしれない。人が作り出した言葉に人という枠組みを超越することなどできはしないのだから。  まあ所詮、言葉遊びだけれど。  何にせよ、そんな人間の醜さがどうしようもない事だと、そう理解したから私は今こうして生きていけている。だからこそ全ての関係を絶つ決心がついたのだ。おかげで一人でいることが苦しくはない。蔑まれることが、辛くはない。 「もう一度言ってみろ。皇子代」  眼鏡の教師はもう一度そう彼を促した。 「それは、こんな場所で、しかも教師が、生徒に向かって言うようなことじゃあないって言っているんですよ」  彼はわかりやすいように言葉を切りながらそう言った。 「いや、わかってるか。あなたはわかってて言ってる。今、このタイミングで、相手が彼女なら、少しくらい言い過ぎても誰も問題にはしない。そう踏んだ上であなたは彼女に暴言を吐いた。全くをもって教師のやることじゃあないですね」  教室の空気が凍りつくのがわかった。何人かの生徒が、余計なことを、と彼を睨にらんでいるのが見える。今日日の反抗的な若者にしても少し性質たちが悪い。いや、かなり悪い。  これがかっこいいとでも思っているのだろうか。 「本気で、言っているのか? だとしたら皇子代、口の利き方に気をつけるんだな」  教師の方は、あくまで自分は大人で、相手は子供、大人らしく対応しようと、あふれ出そうになる怒りを抑えつけているようだ。今にも爆発しそうだが。 「話を逸らさないでください。ていうか先生に口の利き方を教わるとは夢にも思いませんでした。自虐ですか?」  そう言って最後に不適な笑みをこぼした。明らかに挑発している。  馬鹿だ。そんなことをしてなんになるというのだ。私は感謝などしない。周囲も彼を讃えはしないだろう。全くもって理解のできない行動だ。教師に刃向うことをカッコいいと思うのは、中学生までにしてほしい。  しかし彼は――皇子代黎は引くに引けなくなったという感じには見えない。明らかに自分の意思で、敵を攻撃している。 「ふん。そういう馬鹿な発言をしているから、今時の若者は駄目だ駄目だと言われるんだ。私も教師以前に、一人の大人として、日本の将来を案じ得ないな」  子供相手に反撃しようと、教師は平然を装って言う。その時点で負けではないだろうか。 「大丈夫ですよ。先生が心配しなくたって未来は僕たちが守りますから。どうぞどうぞ、安心して死んでください」 「ちっ……それくらいにしておけ。それ以上は許さんぞ」  ピクリ、と教師のこめかみが動く。ハッキリと、聞こえるように舌打ちをした。  しかしそれでも彼は、皇子代黎は引くつもりはないらしい。 「じゃあ先生のさっきの言動は許されるんですか? 自分に甘くて他人に厳しい。駄目な指導者の典型じゃないですか。そんな人間が教師? あなたは教える側じゃない。教わる側の人間でしょう」 「いい加減に、しろよ」  教師の息遣いが荒く一番後ろの私の席まで聞こえてくる。ギリギリと歯ぎしりをし、必死に怒りを押し留めようとしているのだろう。子供相手にそれではもう負けている。  しかしそんなことも気に留めず、彼は暴言を続ける。トドメを刺すかのように。 「人のせいにする前にまずは自分の授業を生徒が聞きたくなるように努力したらどうですか。はっきり言って先生の授業はつまらないですよ。僕だって今日のこの授業、これっぽっちも記憶に残ってません」  それは偉そうに言うことじゃない。  しかし、それでずっと耐え続けていた教師の怒りが限界を超えた。  教卓に教科書をガン、と叩き付ける音が響く。 「皇子代ッ! お前は自分が今誰に向かって言っているかわかっているのかッ!」  叫んだ。力いっぱい。おそらく廊下を伝って近くの教室にまで響き渡っただろう。いや、今のならば廊下の窓を飛び越えて、向かい側の校舎の職員室にまで届いている。  私はすぐに皇子代黎を見た。こちらからは顔が見えないが、彼はその叫びに動じる様子も全くなく、怒り狂う教師から視線を外さなかった。  ただ、睨みつける。  そして少し間があって、彼はおもむろに口を開いた。 「いいから、さっさと謝れよ」  皇子代黎は静かにそう言った。  しかしそれは教師の怒号に萎縮してしまったという感じではない。こんな状況にも関わらず、恐ろしいほど静かな、そして落ち着いた声だった。  ただ、背筋が震えた。  彼の表情すら見えないというのに、本能的に私は彼を恐れた。  この状況で、あんな冷たい声を出せる人間を私は見たことがない。相手は教師、つまり大人で、こちらはたった十六歳の子供だと言うのに、今の状況はまるで正反対に、子供がダダをこねる大人を叱っているかのような、そんな感じがした。彼の普段の賑やかな振る舞いからは決して想像できない。  そんなオーラに気圧されたのだろうか、教師は少し引いたように見えたが、それでも大人のプライドだろう、自分を鼓舞するように再び机を叩き、皇子代黎を指さして何かを言おうとした――が、できなかった。 「先生」  その言葉に遮られたからだ。それは教師でも皇子代黎でもない、また別の人間の声。 「……(にのまえ)」 「時間の無駄です。早く授業を進めてください」  皇子代黎の右隣に座る女子生徒、一朱里(あかり)は淡々とそう言った。  肩まであろうその黒髪を頭の右後ろでシュシュで縛り、右肩に掛けている。彼女はこのクラスの委員長。まだ子供っぽさが抜けていない丸みを帯びたその顔に似合わず、凛とした印象を受ける。いかにも優秀そうな人間だ。いや、実際優秀なのである。そうでもないと委員長などやるわけがない。その証拠に一朱里に睨まれた眼鏡の教師は、やっと自分が不利な状況であるのだと気付き、その怒りを一瞬にしておさめた。  ここでこのことを問題にして、不利になるのは教師の方だろう。もちろん生徒である皇子代黎にも問題はあったが、それは最初に不誠実な行いをした教師側の責任であり、まずは教師側の処罰を検討するべきだ。誰かに訊かれたら彼女はそう言うし、教員内でもそれだけの発言力持っている。そういう立場だ。それは一朝一夕で養える資質ではない。今までずっと、誠実に努力をして生きてきたのだろう。それが見て取れる。成るべくして成った。私とは正反対だ。 「授業を再開する」  教師が眼鏡をかけ直しながらそう言って、授業が再開される。  どうしようもないくらいまで燃え上がった火が、まるで何もなかったのように一瞬で鎮火された。  消したのは凛とした少女。  燃えたのは愚かな眼鏡教師。  燃やしたのは偽善者の少年。  そして火種は――私。
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