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写真部の記録③
「いらっしゃいませ――」
「……っと。おや、今日はみんなお揃いだね」
店の入口を潜ると、穏やかな声がそう出迎えてくれる。綺麗に磨かれたカウンターの中では、今日も一人の男性が柔らかな微笑みを浮かべていた。
店主の風沢朝陽さん。年齢こそ若いが、これでもこの喫茶風沢のれっきとした店主だ。
「こんにちは、朝陽さん」
千夏が挨拶を返す。楓さんと同じく、彼女も中学の時からこの店に来ていたそうで、その口調は親しげだった。
「うん、こんにちは。千夏ちゃんもいるってことは、今日は部活の帰りかな?」
「そーそ、他の部から頼まれ事でさー。朝からずっと裏山ん中を歩き回って……あー疲れた」
実家かと突っ込みたくなるほどに脱力した口調で言いながら、楓さんはカウンター席の一つに腰を下ろした。こちらは明らかに馴染みすぎだろう。
「休みたいのは分かりますけど、俺たちはこれから仕事ですよ。さっさと準備しないと」
「えーっ。いいじゃん、ちょっとくらいー」
足をばたつかせて、ごねる姿はまるで子供のようだ。他の客がいないタイミングだったのが幸いといったところだろう。
「急がなくていいよ。忙しい時間帯まではまだあるし。珈琲淹れるから、霜司くんも一息吐いたら?」
「…………」
何とも抗いがたい提案だった。
だから楓さんが付け上がるのだろうが、それでこの人を責めることもできないだろう。
「……すみません。では、少しだけ」
「真面目だねぇ、君は」
「楓さんが緩みすぎなんです」
「んだとー、仮にも先輩に向かってー!」
という逆ギレは聞き流しつつ、席につく。丁寧に朝陽さんに頭を下げてから、隣に菱木がチョコンと座った。
「大丈夫なのか、本当に」
どこか気の抜けたその横顔に声を掛ける。返事までには若干間があった。
「ふえ…………あ、すみません。ちょっとぼーっとしてしまって」
いけませんねと、強がって笑う。明らかに疲労している様子だ。
……やっぱり、本当のことなのか。
いつか、楓さんから気を付けるように言われていたことを思い出す。やはり少し信じがたい話ではあるが、相変わらず丸っきりの嘘とは思えなかった。
呪いが掛けられている、か。
「はい、どうぞ」
考え事をしている間に、珈琲が運ばれてくる。立ち上る湯気の香りに惹かれて、自然とカップへ手を伸ばしていた。
口を付けると、普段はむしろ好ましいはずの苦みが、今日は少しだけ気になった。
あの日、楓さんに連れられてこの喫茶店へやってきた自分は、成り行きでそのまま店主の朝陽さんと面接をすることになった。当然履歴書なども持ってはいなかったが。
決めるなら早いほうがいいという楓さんのごり押しには、さすがの朝陽さんも少し困り気味ではあった。けれど人手不足も無視できない状況だったようで、結局簡単な面接を経て、晴れて自分はバイト先が決まることと相成ったのだ。
「ありがとうございました」
会計を終えた老夫婦が、「ごちそうさま」と微笑んで店を出て行った。働き始めて間もない自分でもよく顔を合わせている気がする。きっと常連客だったのだろう。
「…………」
業種に拘りがなかったとはいえ、元々それほど愛想の良い方ではない自分に接客が務まるかは少し不安だったのだが。明るめな表情や口調はこれからも気を付けるとして、とりあえずは現状、これで何とかなっているようだ。
「いやはや、いい笑顔だねぇ……ふふっ」
「何で笑ってるんですか」
いつからか傍で見ていたらしい楓さんに問いかける。
「普段から無表情なやつが作る笑顔って、見てるとつい頬が緩むんだよねぇ」
「……褒めてはないですね?」
「可愛いってことだよ。十分な褒め言葉だと思うけどな?」
それならそのからかうような口調をどうにかしてもらえないものか。少なくとも素直に喜ぶ気にはなれない。
溜め息を吐いて、大方の客がいなくなった後の店内を見渡す。先ほどの老夫婦のような常連が多かったのか、それなりに忙しかったはずなのに、この店の落ち着いた雰囲気にそれほど変化はないように思える。
「……やっぱり疲れてたんじゃないか」
カウンターの水拭きをしながら、その隅っこで静かに突っ伏しているその姿を見て、自然と苦笑いが零れる。少しくらい声を掛けても目覚めないだろう。
「う」
「はは。爆睡してるねぇ、こりゃ」
と思っていたら、歩み寄った楓さんが遠慮なく菱木の頬をつつき始めた。さすがに表情が少し歪んだが、それでも寝息が途切れる様子はない。
いくら常連といっても、営業中の店内で眠るのはあまり褒められたことではないだろう。一応大丈夫かと尋ねてみれば、「実家のような安心感がうちのモットーだからね」と、店主はあっさり黙認してくれたけれど。
無論、菱木がそれを分かっていなかったはずはない。こういった規則的なことに関しては、少なくとも彼女の方がしっかりしている。実際、しばらくは眠気と格闘している様子もあった。
とすれば、やはりそれだけ消耗していたということだろう。自分たちよりもずっと。
「大丈夫だよ。これくらいなら」
「?」
「心配性だなぁ、君も」
そう言って、またからかうように笑う。それほど動じていないのは、それだけ長く彼女を見守ってきた証ということなのだろうか。
「頑張り過ぎることもあるけど、それでもこの子だって分かってるから。もしどうしようもなさそうに見えた時は、君の判断で、強く止めてくれたっていい。
……ごめんね。あたしが傍にいないときは、頼めるかな。この子のこと」
「……はい」
限りある時間だとしても、関わらないままで過ごすには長すぎる。
頷きに迷いはなかった。自分でも驚くくらいに。
姉妹のように互いを想い合う二人の姿が、それだけ美しく、大切なものに見えたから。
相変わらず、こんな自分にも何かできないかと、そう考えてしまう。
やがて店が閉店時間を迎える。清掃を終え、エプロンを外した自分たちは、明かりの薄くなった店の前で向かい合っていた。
「じゃ、また明日。写真の締切も近づいてきてるし、頑張ろうな」
「そうですね。さぼって菓子食ってる時間なんてないでしょうから、誰かさんには気を付けてほしいところですけど」
「バレなきゃオッケーってことで――――ほぎゃっ」
悪びれる様子もない楓さんの側頭部に、背負われている菱木からの頭突きが命中する。起きたわけではないらしく、おそらく意図的ではなかっただろうが、まるで「そんなわけあるか」と的確にツッコミを入れたようにも見えた。
「反省してください」
「わ、分かったよー……いてて」
なかなか利いた様子だ。痛みを堪えつつ、踵を返した楓さんが遠ざかっていく。
背負うのも慣れているのだろう。手伝いましょうかと追いかけるには、あまりにも不安定さを感じさせない後ろ姿だった。
……さて、帰ろう。
二人の姿が小さくなってから、静まり返った夜道を反対方向へ進む。日曜の夜ともなると商店街も人や車の数が疎らだ。
「…………」
何となく、風沢を初めて訪れた日のことをまた思い出す。あの日の帰り道も、確かこんな雰囲気だった。
とすると、また同じことが起こるかも知れないと考えるわけだが。
あの日は本当に色々なことがあった。同級生の抱える事情の一端を知り、前日に揉めた上級生と一応の和解を果たしたかと思えば、そのまま探していたバイト先が決まって。
これだけでも十分ながら、実はもう一つ、自分は珍しい体験をしていた。
それほど在り来たりなことではないと思う。そもそもそれは、ここから遠く離れた場所でひっそり存在しただけの、ただの都市伝説もどきだったはずだ。
……にも関わらず、自分は再会してしまった。
ゴキッ ガッシャーンッ!!
骨に骨をぶつけたような鈍い音。崩れる鉄材の音。……そうそう、確かあの夜もこんな音が相次いで聞こえていた。
「…………」
建物と建物の間。路地裏といえばいいだろうか。さすがに車で入っていけるような所ではないが、複数人が軽くじゃれ合っていられるくらいの広さはあるようだ。
覗き込むと、やはり彼が立っている。きっとたった今殴り倒したのであろう何人かを見下ろすようにして、息も乱れさせることなく。
「――――誰だ」
……気付かれた。
大人しく壁の陰を出る。心配せずとも、何もしなければ何かされることはない。それくらいの常識は弁えている相手だ。
月明かりが少し強まる。遮っていた雲が通り過ぎたのだろう。
淡い光が路地裏を照らし出し、彼の姿が露わになる。先ほどから“彼”と呼称してはいるが、きっと初めて見たのでは、その性別を判別することはできなかったに違いない。
というのも、
「……久しぶりだな」
すっぽりと顔を覆う黒色の面。どこかの祭りで売っていそうなプラスチック製のそれはウサギを象ったもののようで。
路地裏の黒ウサギ。そう言えばこの辺りではそこそこ通じるという。
それは紛れもなく、この街の都市伝説だった。
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