一・七五キロを投げる

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**********  前田が文芸部であるというのは昔から知ってはいたが、その実、どんな活動をしているのかは知らなかった。  どういうことをしているんだと聞いても、彼は自嘲気味に「小説を書いて、絵を描いてる」と答えるだけであった。それ以上のことは何も知らない。  何度か部室変更しているようで、今は情報室に落ち着いているようだった。いざ入ってみると、何人かがパソコンと睨めっこをし、あるいはノートに向かって何やら鬼気迫る表情で鉛筆を動かしていた。 「……俺の知らない世界だ」 「お互いにそれは言えることだな」  前田が俺の後ろをすり抜けて部屋に入る。部員の何人かがこちらを見るが、前田に促されるままに前の席に座った。曰く、彼の特等席らしい。 「ここなら色々と話しやすい」 「うるさくしてもいいのか」 「構わない……はずだ、うん。気にしない方向でいこう」  仮にもお前はこの部活の最年長だろう――そう言いかけてやめた。前田はどこから出したのだろうか、白いノートパソコンを開いて、起動ボタンを押していた。 「――それで、何で呼んだんだよ」  デスクトップに見慣れた四つの四角で構成されたマークが出る。前田は何回かキーボードを叩いた。 「悩んでると思ってよ」 「はぁ?」 「陸部辞めるってことは相当だろ」  言っている間に、ログインIDとパスを打ち込んでいる。 「だから、ここに呼んだ」  こちらを見ないままにキーボードを叩き、彼は手慣れた様子でアプリをいくつか開く。動作に時間がかかるらしく、足元の荷物から黒いノートを出して、ペラペラとめくっていた。 「〆切も近いからな、勝手に喋ってくれ」  そうして、彼はノートとパソコンを交互に見ながらキーボードに指を添えた。目を閉じて、一つ唸った。カタリ、規則的な音。連続で十回前後、エンターキー。それを繰り返す。どうやってこんなにも早く打てるのだろう、と俺はぼんやりと考えていた。  椅子に深く腰掛けて、目を閉じた。 「いざ話すとなると難しいな」  呟いて、俺は他の部員を見回した。イヤホンをしている者、携帯をいじっている者とがいた。俺のことには無関心らしい。それがある意味、この場では心地いい。 「……そうだな、俺は多分、何かに焦ってるんだと思う」  僅かに紡いだ言葉は、キーボードの音に紛れて消えた。 「円盤投げとかできなくなってさ、大会にも出られなくなった。受験に打ち込めると思えばかなりいいのかもしれないけど、やりたいことが何もなくなっちまった」 「バーンアウトか」前田が口だけを動かして言った。 「それとは違う。やりたいことが見つからないっていうか、なんて言うべきだろ……」 「わかった」  エンターキー。それから前田はこちらを見た。 「お前、疲れてるんだよ」 「は? いや、そんなわけ」 「俺と同じだ」  そう言って、彼はパソコンに向き直った。眼鏡が光を反射しているのを見て、オタクのようだ――と思って、そういえばオタクだったと思い直す。 「お前さ、陸上は好きか?」  唐突な問いだった。聞き返すと、同じ語調で同じ質問を繰り返した。 「好きといえば好きだよ」 「趣味とか部活っていうのは、好きだから続けるものなのか?」 「そう……だと思う。いや、そもそも好きじゃないと続かんだろ」 「そうか」  前田は椅子に深くもたれて、あぁと身体を反らした。バランスを崩さないかと心配するが、すぐに元の体勢に戻った。 「俺はな、好きで文芸部やってるんじゃないんだ」  寂しそうにそう言って、またキーボードを叩き始めた。 「怖いんだよ、これ辞めたら俺は何者になるんだろうってよく思ってさ」  初耳だった。普段から携帯で何やら文字を打ち込んでばかりいる彼が、小説を好きじゃないと。俺は静かな衝撃を感じながらも、彼の言葉の続きを待った。 「好きでやる奴は上手くなれる、だけど俺はそうでもない。認められたいからやってるだけだ」  不意に、彼と自分とが真反対の位置にいるように感じた。その距離は遠く、しかし遠いからこそ仲違いも起きない――のだろうか。 「お前はすげえ奴だよ」  微笑むと、何やらパソコンを操作して電源を落としてしまった。原稿はいいのだろうか、などと思っているうちに彼は立ち上がり、リュックを背負った。 「天川。外、出るぞ」  唐突に前田はそう言った。立ち上がれないでいると、彼は俺の二の腕を引っ張り急かしてくる。 「文芸部は文脈なんて読まないんだよ」 「空気読むとかあるだろ、いやお前はいつもいきなりなんだって」 「ケーワイ上等だ、ほらお疲れ様でした」 「お、お疲れ様でした……え、俺もこれでいいのか」 「いいんだよ、ほら行くぞ」  前田に促されるままに、俺も荷物を持って文芸部の部室を後にした。 **********
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