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「いらっしゃいませ」と彼がお冷やのコップを持ってきた。美歩のテーブルに置く。 「オススメありますか」と美歩は見上げる。 「そうですね。今日はアジのいいのが入ってます」 「へぇ」 「なので刺身。フライでもいいけど」 「じゃあ、お刺身で」 「定食?」 「ええ、定食」 「お待ち下さい」と彼はうなずいて奥に戻る。奥は厨房で彼しかいない。 美歩は店内を見まわした。先日は早く友だちのところに戻らないと、とあせっていてよく見なかった。店はそれほど広くなくテーブルは大小合わせて10。椅子は30。一方の壁にはこのあいだ見たお品書き。逆の壁には窓がある。その横には時計。カレンダーとビールのポスター。レジは出入口の横で天井近くの棚にはテレビがあるが今はついてない。トイレは厨房横の通路を進んだ突き当りだった。床はコンクリートの打ちっぱなしで傘から垂れた水は窪みに流れる。テーブルの上にはメニューと醤油さしと爪楊枝入れ。 見まわしながら美歩は上の空だった。彼と次にどう話そうか、そればかり考えて目にしたものが頭に入らない。 来る前にいろいろシミュレーションはした。こう言われたらああ言おう。こう話しかけたら彼はこう返すんじゃ? しかし妄想を膨らませているようで恥ずかしくなった。だいたい人見知りでシミュレーション通りにできるわけない。彼の出方次第なんだし考えてもしょうがない、とやめにした。しかしノープランだとただ身がすくむ。どうしよう。妄想でももうちょっとシミュレーションしとくんだった。 気配がして店の出入口を見るとガラス戸のむこうに若いカップルがいた。ショーケースのメニューを見ている。入るのを迷い結局やめて店先を離れた。美歩はほっとする。彼とふたりだけは緊張するが他に客が来ては話せるチャンスが減る。そしてそうだよ、今はチャンスなんだよ、とまたあせる。どうする? でも食べに来るのは今日が最初で、いきなりグイグイ行くのは裏目に出るかもしれない。無理してもロクなことはない。ただ食べて帰るんでいいじゃない、と思う。また来ればいいじゃない。何度も来れば憶えらえるし。でもそれってビビってるだけじゃ? 遠慮と言うよりただ臆病で。    *** 11月9日に電子書籍を発売しました。作者の自己紹介にあるHP、または「あらすじ」の下部から購入サイトにお進みいただけます。ぜひ。
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