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金曜日、花凛は定時で仕事をあがり、一旦家に戻って着替えを済ませてから東京へ向かう。
「行ってきます」
母親に声をかけると、呆れたように溜息をつかれた。
「駿君はこっちに来てくれないの?」
「忙しいから無理だよ」
「こっちで就職してくれればねぇ……」
母親としては、駿がこっちに戻って花凛と結婚するのが一番だと思っているのだ。花凛が東京へ行くことなど考えていない。
まだ少し時間があったので、花凛は試しに尋ねてみる。
「ねぇ、私が東京へ行くって選択肢はないの?」
「え? そんな話が出てるの?」
「そういう訳じゃないけど。でも、可能性としてはその方がありでしょ」
東京で順調に仕事ができているなら、こちらに戻ってくる必要はない。給料だって東京の方が高いのだ。まぁ、生活費も高いのだが。
「でも、せっかく地元の銀行でしっかり働いてるのに、辞めるの?」
「駿が東京に来てほしいって言えば、そのつもりだよ」
こんな風にはっきりと言うのはこれが初めてだ。薄々わかっていただろうに、母親は驚いた後、落胆した表情を見せた。
「でも、そのつもりがあればもう言ってるでしょう? まだ言わないってことは……」
「駿にだって都合ってものがあるでしょ? こっちの都合ばかり言えないじゃない。それに、私は駿の重荷になりたくない。まだ結婚できないっていうなら……同棲でもいいと思ってる」
「花凛!」
母親の言いたいことは痛いほどよくわかる。花凛だってそう思っているのだ。
結婚する気があるなら、東京に来てほしいという意思があるなら、もうとっくに言ってくれてもいいんじゃないか、と。
それでも、第三者から言われると反論したくなる。違う、そうじゃない、そう言わないと、立っていられなくなりそうになる。
「今更同棲もないでしょう? それに、嫁入り前の娘が男と一緒に住むなんて、お母さんは許さないわよ!」
「今時同棲なんて普通でしょ!? なんでそんなに厳しく言うの? そんなに娘が信じられないわけ? 駿がいい人だって、お母さんだってわかってるじゃんっ!!」
高校の頃からずっと付き合ってきたのだ。それに、真面目な駿は、付き合ってすぐに家に来た。きちんと両親に挨拶をしたのだ。今時珍しいくらいにしっかりした子だと、両親は駿を一目で気に入った。それなのに──。
「いざとなれば、強行手段に出るからね、私!」
「花凛!」
もう時間がない。花凛は荷物を持って、一目散に駅に向かう。
背後から自分を呼ぶ声が聞こえる。
「やっぱり出掛けにする話じゃなかったよね……」
気持ちが高ぶっていたからだろうか。TPOをわきまえない自分に呆れ、花凛は大きく息を吐いた。
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