第1章 露草

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第1章 露草

■1  夜の公園の脇を歩くと、花壇からは大量の腕が手招きをしている。  年老いた手もあるし、やわらかい子供の手もある。男性の手もあるし、女性の手もある。  風に吹かれてそよそよと動いている腕。指先で何かを求めるような動きをする腕。とにかく夜の公園の花壇には、大量の手が生えている。  と言うのは嘘だ。東中央こども公園に生えているのは、季節真っ盛りのチューリップである。ついでに言えば私はコンビニに向かう途中で、ポケットに財布を突っ込み、花壇に一瞥をくれただけだ。  車が2.3台止まっているだけの深夜のコンビニに入店する。闇の中を歩いてきたので、まぶしさに目がくらむ。一瞬目を閉じて、目を開けると、カウンターの中にいる店員が、こちらを見ずにいらっしゃいませ、と言う。  店員の腕はコスモスだった。ほのかにピンクで、中央の部分は黄色である。店員の肩から生えているはずの腕はない。かわりに両肩から、見事なコスモスの花束が生えているだけだ。  と言うのも、もちろん嘘である。ちゃんと彼女は五体満足の人間で、両腕が生えている。だから私がプリンを購入するために小銭を出すと、店員さんはちゃんと小銭を受け取ってくれる。そのコスモスの両腕で、ピンクの花弁を細やかに動かして、レジの中から小銭を取ると、私に渡してくれるのだ。  私はレシートとレジ袋を受け取る。私と入れ違いに入ってきた、作業着のおじさんの両腕には、桔梗が生えている。  いつからだろうか。私の視界がおかしくなったのは。私の目には、人間の腕が花に見える。そして野に咲く花が、人間の腕に見えるのだ。  私は帰り道を歩いていた。先ほど通った公園まで来ると、私はふと思い立って公園の中に入る。花壇に植わっているのは、やはり大小さまざまの人間の腕だ。  もちろん、そこにあるのは『チューリップ』だということは私にもわかる。なぜなら看板に子供の字で『チューリップ畑 柳田南小学校 一年生一同』って書いてあるからだ。  だが私の目には、花壇一面に人間の腕が植わっているようにしか見えない。 みしり、と音がして、右奥の方の人間の腕の指が動いた。老いた男性の腕だ。私はこの視界を手に入れるまで、腕に性別があるなんて知らなかった。  私は人間の腕畑……もとい、チューリップ畑を見回した。夜の風がそよそよ吹いている。互い違いに、お互いがお互いの邪魔にならないように均等に植えられた人間の腕、じゃなかった、チューリップ。  私はちょっと想像してみた。小学校の社会科の授業で、自分の花を動かして、嬉々として人間の腕を植える小学生。子供の笑い声。午後の明るい陽射し。指導教員。小学生の、黄色い帽子。  私は想像を中断した。いくらなんでもエグすぎる。私はため息をついて、公園を出ることにした。レジ袋の中のプリンは、生暖かくなってしまっていた。  私は家に向かって歩き始めた。街灯の少ない暗い住宅街だ。下を向いて道を歩いていると、街灯で私の影は濃くなったり、薄くなったりした。  それから、私はそれを見つけた。道端にぱさり、と落ちている花束だ。なかなかの大きさで、ラベンダーの花束のようだ。  どこかでパーティーがあって、誰かが落としていったのだろうか? 落としていったにしては、大きすぎる花束だが。そういえば、コンビニに向かう途中でもちらっとこの花束を見た覚えがある。気にも留めなかったが、なかなか立派な花束だ。  暗くて色はよく見えなかったが、ラベンダーだから多分紫色だろう。私はその花束を通り過ぎて、しばらく歩いた。それからコンビニの袋を持ち直そうとして、自分の腕を見て、はたと気づいた。  戦慄が背筋を走り抜ける。例えるならば、ガラスのコップを落としそうになって、背筋に走る、緊張感がずっと続いている感じだ。  私の視界では、花が腕に見える。そして人間の腕が花に見えるのだ。だとしたら、さっき落ちていた花束は、人間の腕ではないだろうか?  ……いや、そんな馬鹿な。私は踵を返して、先ほどのラベンダーの花束のところまで早歩きをした。ラベンダーの花束は、まだそこにあった。そうして私の目には、その花束は花束にしか見えない。  私は花束に近づいた。腐臭がする。しゃがみこんで近づく。腐臭がさらにひどくなる。私はその花束におそるおそる、自分の指を伸ばした。  しっとりとした、人間の肌の感触が返ってくる。
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