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■27
断りづらいと断れないと逆らえないは、同義語である。私は、あの状態で、「結構です!さようなら!」と言って雨の中を走りだす勇気はなかった。あと、出入り口も絶妙にふさがれてたし。
断り文句がまったく見つからなかったのだ。「私車酔いしやすくて」?少しぐらい我慢しろという話である。「昔車の中で乱暴されたことがあって、拒否反応が……」とか? 嘘は良くない。
かくなるうえで、私はぺこぺこと謝りながらトウノさんの運転する車の助手席に乗った。座席が濡れそうでちょっと申し訳なかったが、もたもたしていると車内が雨でさらに濡れてしまうので、私は座った。
「ユウさんは、大学方面だったっけ?」
「ああ、そっちの方です」
「じゃ、その辺を目指して走るね」
ウィンカーを出すと、車は発進した。緊張する。
雨が降っている。エンジンの音がする。ワイパーの音がする。私は何かしゃべろうとしたが、何をしゃべればいいのかわからず、黙り込んでしまった。トウノさんは運転に集中しているようだ。雨の道路を走る音がする。
子供のころからこんな想像をしていた。雨の日には、雨の魔女が車の上に乗っている。魔女はその長い爪で、車の屋根をカツカツと叩くのだ。実際にはそれは、電線から垂れてきた雨だまりだったり、木の葉にたまった雨が、車の上に落ちてきたりするだけなのだが。
私はトウノさんのハンドルを握る腕を眺めていた。白い百合は器用にハンドルに絡みついて、大きく握ったり、小さく握ったりしている。こんなに間近でトウノさんの腕の花を見るのは初めてだ。
白い花びらは雨の光に透けて、つやつやとしている。少しすました様な上向きの花々で、真ん中の部分ははっとするような黄色だ。花びらの一枚一枚には、筋のような白い線が入っている。
手に、治りかけの傷があるようだ。でも……あれ? 私は以前、トウノさんの黒百合の手を観察した時のことを思い出した。
あの傷は、花弁の根元部分についていた気がする。しかし、今目の前のトウノさんの傷は、花弁のもっと根元のところに傷がついているのだ。人間の手に置き換えれば、たぶん数ミリの位置だろう。 傷がズレた?それとも、また別の傷なのだろうか? それとも……
「僕の手が気になる?」
トウノさんが笑った。
「あっ、いえ、なんでもないです。運転上手ですね」
私はとっさに、思ってもいなかったことを言ってみた。
「毎日車通勤だからね。慣れだよ」
おそらく、トウノさんも思ってもいなかったことを言った。
「花屋は水仕事が多いから、どうしても手が荒れるんだ」
トウノさんが続ける。
「ユウさんも、以前の職場だと手荒れが大変だったでしょ?手を消毒しなきゃだし」
「よくご存じですね」
実験器具やサンプルを触る時は、必ず両手をアルコール消毒していた。衛生面、安全面を考慮しての決まりである。そのせいで、私の両手は一時期すごくガサガサになってしまっていた。
あのころはまだ、私の両手はモクレンではなく、ちゃんとした人間の手だった。
「病院も似たようなものだったから」
そういえば、トウノさんは以前医者として働いていたと聞いた。いったい、どうして辞めてしまったのだろう?
「いろいろあってね」
トウノさんが私の心を読んだかのように言った。
「体がついていかなくて」
トウノさんはハンドルを切った。
「知っているかもしれないけど、医者と言うのはすごくハードな職業なんだ」
トウノさんが言う。
「覚えることも多いし」
と付け加える。
「体調を崩されたんですか?」
「もともと体力がない人間だから、体力的に厳しかったのもあるけど」
トウノさんは言った。
「……悔しかった」
トウノさんが突然いうので、私はトウノさんの顔を見上げた。バックミラーの反射で、トウノさんの顔だけ少し明るくなっている。
「僕がやってきた6年間は、何だったんだろう、ってね」
私はなんと声をかけるべきかわからなくて、黙り込んでしまった。
「ユウさんは」
トウノさんが突然口を開いた。
「理学部卒だったっけ?」
「あ、はい。理学部卒です」
「卒業後は、例の動物遺伝学研究センターへ?」
「……はい」
間髪入れずに返事をしたつもりだったが、少し変な間が開いてしまったかもしれない。
「大学で学んだことを、生かせる職場だった?」
同年代から、なかなか質問されることのない種類の質問だ。私は少し考えた。
「はい……だけど、いいえ。虚しかったです」
「虚しい?」
いつもだったら視線を合わせそうなトウノさんは、運転中なのでこちらを見ない。私も助手席から、前の方を無心に眺めている。
「マウスを殺すために、大学で学んできたのか、と」
私は言った。
「虚しかったです」
車外の雨だまりがすべて赤に染まる。降ってくるのは透明な雨ではなく、赤い血の雨だ。道路を横切るたびに、山のようになったネズミの死体が潰れる。
道路わきにはいくつもの人間の腕が植えられていて、車道側を向いていて手招きをしている。指からひじへと血の雨がしたたり落ちて、そんな光景がどこまでもどこまでも広がっている。
私は瞬きをした。
車の外は普通の雨の日の景色に戻った。曇天の厚い雲の上で、日が傾いてきたことを感じさせる、夕方の雨の昼。ネズミの死体の山なんてどこにもなく、あるのは道路の白線と、中央分離帯だけだ。
一瞬、トウノさんの腕が普通の人間の腕に見えた。ごつごつとした、おおきな、男の人の腕。でもそれは一瞬のことで、私の目にはすぐに白い百合の花に戻った。
「私、今度植物園に面接に行くんです」
私は話題を変えるように言った。
「ああ、この前一緒に行った中央植物園?
「はい。あそこで契約社員の募集をしているのを見かけて。とりあえず、面接だけでも受けてみようと思っているんです」
「いいね。この前行ったときは、本当にいい天気だったし」
「家族連れも多かったですね」
私は思い返して、ちらっと、運転席のトウノさんの姿を見た。
違う。私が植物園に行ったのは、鬼百合の腕をしたトウノさんであって、この白百合の腕のトウノさんではない。
いや、私はいったい何を考えているのだ。トウノさんはトウノさんじゃないか。私は……
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