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くだらない話に笑ってくれた人を思い出す
それは今まで食べた中で、一番まずいラーメンだった。
店の壁は真っ赤に塗られ、圧のある筆文字で書かれたメニュウやらスローガンやらが至る所に貼られている。そして店員は不気味なほどに愛想が良い。
見知らぬ町の見知らぬ店、深夜一時四十分、つまらなくてくだらない。
どうして私はここにいるんだろう。
そう、茶色く濁るスープを啜りながら猛烈に思う。
目の前で同じようにスープを啜る恋人は十分前からなぜか急に不機嫌で、だから私は、十分前からずっと間違い探しを強いられている。
自分の言葉、仕草、目線。
相手の言葉、仕草、目線。
ずっとずっと思い出している。
そうしてひとつの答えに辿りつく。
ああ、お金がないんだ。お金がないのに、食べたくもないラーメンに七百いくらを払うことに腹を立てているんだ。
そう気付いた途端、さっきよりももっと強く思う、まずいラーメンだな、と。
こんなもん、私だって食べたくない。
望んでもいない油まみれのラーメンをこんな時間に摂取することが、二十八の女にとっていかに不本意でデメリットまみれか、誰にだってわかるはずだ。
だけどこの人にはできないんだろう。金がないと正直に言うことも、外食を避けることも、会計時、女に財布を出させることも。
そして私に、今日は会えないと言うことも。
この人のどこを好きになったんだろう、ふと思う。
だけどその思考を深追いすることを本能が拒む。考えたくない。ゾッとする。
それはイコール、このラーメンをまずいと感じていることと直結しているように思う。
白い蛍光灯の下、三百円のラーメン。
透き通ったスープ。ペラペラのチャーシュー。
向かいに座る、君。
ふと、いつかの光景が過る。
瞬間、喉の奥がぎゅっと痛む。泣きそうになる。
いけないと目を固く閉じ、そして開ける。目の前にはやはり、濁ったスープと、不機嫌な恋人。
まずいラーメンを食べ終わり、席を立つ。
いつもはスタスタと歩いて、私が着くころには会計を済ませてしまっている恋人が、そのときは席を立つのにもたついていて、私が先にレジに着いてしまった。
図体のデカい店員に二人分の食事代を支払う。釣りを受け取り、財布を鞄にしまったちょうどそのタイミングで、恋人がレジにやって来る。
それについて特に何も思わなかった。不機嫌の理由を金欠だと理解していたし、金なんてある方が払えばいいのだから。
深夜ということを忘れさせるような声の店員に見送られて店を出る。
生暖かい風がじっとりと腕に首にまとわりついて、お冷のグラスに残っていた氷を想う。
ダブついたジーンズの尻ポケットに左手を入れて歩く恋人は、何も言わないまま道を渡ってコンビニに吸い込まれていった。
遅れてコンビニに入ると、レジで煙草を買う姿。確か数週間前には禁煙を宣言していたはずだ。しかしそれは忘れたことにする。
煙草の会計が済んだのを見計らって一足先にコンビニを出る。
後に続いて出てきた恋人が、
「何も買わないの」
不満そうな声を出す。
私は答えず、点滅する信号機の真下まで歩いてそれを見上げる。
「こうやって見ると信号ってデカイよ」
言った瞬間、また過る。うんと遠くにあるいつかの光景。
学生向けの激安ラーメン屋。当たり前の割り勘。
散らかったワンルーム。
借りてきたDVD、その乳白色のケース。
プレーヤーにDVDをセットする君の背中。
ネイビーのベッドカバー。
小さなテレビに映る映画の、主人公のセリフ。
同じところに反応し、笑い合う私たち。
『信号のとこのセリフ、いいよな』
嬉しそうな君の声。
『遠くに行くことになった』
なんでもないことのように告げる、君の声。
ここがどこかわからなくなる。
目の前を通り過ぎる車の音にハッとして前を向き直ると、道を渡るダブついたジーンズの後ろ姿が見えた。
「じいさんの尻みたい」
恋人に聞こえないように、でも賭けるような、祈るような気持ちで声には出して呟いて、小走りでその隣に並ぶ。
私が追いつくと、恋人はまた左手を尻ポケットにつっこんだ。
「餃子、あんまりだったな」
その発言が私に向けたものなのか独り言なのか判断に迷い、返事をするタイミングを逃してしまう。
機会を逸した私を責めるように、恋人は以降一言も発さなくなる。
だからずっと考えていた。
私の頼んだチャーシュー麺は七百円で、恋人の頼んだ煮たまご追加のラーメンと餃子は八百円と四百円だったこと。餃子を一つもわけてくれなかったこと。美味しくなかったらしいがひとり占めした餃子も、欲張ってのせた煮たまごも、支払ったのは私だということ。
付き合い始めた頃、恋人は私がレジで財布を出そうとするのを嫌がった。
男が払わないと格好がつかないだろと言った。
それはイコール、出先で掛かった金は全額を出すという意味なのか、それとも店を出た後に折半をするという意味なのか、私はわからず、また、どちらなのか訊けなかった。
だから毎度、恋人が風呂に入っている間や寝入った頃を見計らって、その日の総額割る二をした金額を、こっそり恋人の財布に入れることにした。
その行為が果たして正解なのか、世の女性が当たり前にやっていることなのか、それともおかしいことなのか、やっぱり私にはわからなかった。
いつかはわかると思っていた。いつか正解が、しっくりが、普通が、安堵が。
だけどわからないままに四年が過ぎて、そしてこの四年で起こらなかったことが今晩起きたのだ。
私が食事代を全額支払い、そしてコイツはその食事に文句を垂れた。
礼を言ってほしい、奢られたことに。
謝ってほしい、餃子をあんまりだと言ったことに。
だけどわかっている、こんなくだらないことを考えている理由。
油断すると過去へ手を伸ばしてしまうから。
だから必死に考えている。礼を言ってほしい。謝ってほしい。
本当はどうでもいいのに。
歩く速度を徐々に落としてみる。少し前を歩く恋人の頭上を、点滅する信号機が照らしている。
「ねえ」
呼びかけると、恋人は顔の半分だけを一瞬こちらに向けてまた前を向き直る。
「信号って、デカイんだよ、意外と」
あっそう。前を向いたまま言い、立ち止まった私に気付かないまま、恋人は横断歩道を渡り切る。
その背中が遠くなっていく。
私は一歩も動けない。
どんどん、どんどん、恋人の背中が遠くなる。
行ってしまえ、遠くに。このまま遠くに。
『遠くってどこ』
いつかの自分の声が聞こえた気がして、信号機を見上げる。
私はくるりと後ろを向いて、恋人とは反対に歩き出す。
そうすれば戻れる気がした。
どんどん、どんどん、遠くなる過去に。
くだらない話で笑い合えた人、一番好きだった人。
その人と、一緒にいられた日々に。
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