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短い言葉を交わしただけで会話は終わり、露天風呂には再び、お湯が湧き出る音と秋の到来を告げるような虫の声だけが響いた。
(少し、のぼせてきたかも)
聡美さんは辺りを見回して、腰掛けるのに丁度よさげな岩場を探した。座って足湯ができるくらいの、高さと快適さを備えた岩場を。吹き出し口の近くで湯に浸かる若い女性の手前に、手ごろな平らな石を見つけ、聡美さんはいったん立ち上がりその岩に向かって歩き始めた。何しろ足元が見えないので、そろりそろりと足先で風呂の底を確かめるようにして進むと、
「あ、ごめんなさい」
今度は聡美さんが女性の足先に触れてしまい、詫びの言葉を口にした。
「え?」
聡美さんが声を掛けた吹き出し口の近くの女性が、不思議そうな声を出した。てっきり彼女の足だと思ったのに、どうやらそうではなかったらしい。確かに彼女の位置と姿勢から考えると、聡美さんの足元まで足先が伸びているとしたらなかなかにきつい体勢だ。でも ──
触れたのは、柔らかな人肌だった。一瞬だったけれど、それは間違いないはずだ。風呂底の小石とかではない。なぜならそれは、聡美さんの足先が触れた際、瞬時に移動したからだ。生きた、何かだ。そのとき、
「ごぉ め ん な さぁ い」
ずいぶんと間延びしたねっとりとした声が、耳に届いた。
「わ た し でぇ す」
露天風呂の反対端にいる年配の女性が、聡美さんに向かって声を掛けていた。
今、ぶつかったのが自分だと言っているのだろうか。だとしたらいったいどんなジョークだ? 聡美さんと女性との距離は、ゆうに三メートル以上あるというのに。
ざざあっと水音を立てて、その女性が立ち上がったかと思うと、湯の中から現れた上半身は異様なまでに長く、あれよあれよと天に向かって伸びていく。そして、呆気に取られている聡美さんにくるりと背を向けると、びたんと腹ばいになってするすると露天風呂の茂みの闇に消えていった。今見たものは、いったい何だったんだ? 聡美さんは背後にいる若い女性を振り返り、視線で確認を求めた。貴女も、見たわよね? と。
だが若い女性客は、肩までゆったり湯に浸かりながら、硫黄の香りを楽しむかのように気持ちよさそうに目をつぶっている。彼女は、あの女の声も姿も、見聞きしていなかったのだろうか。それともあれは、温泉にのぼせたせいで自分だけに見えた、幻だったのか。
若い女性が湯から上がり、建物の中に戻ろうとするところを、慌てて聡美さんも一緒に後を追った。薄暗い露天風呂にひとり残されて、また何かとんでもないものに遭遇しては堪らないとばかりに。
露天風呂の茂みの暗がりに目をやると、消えていった女の大蛇の尻尾のような後ろ姿が、残像として蘇ってくるようで、聡美さんは逃げるようにして露天風呂を後にした。
「もしかしてこの辺りには、蛇に纏わる伝説か何かあったりしますか?」
翌日、聡美さんはチェックアウトの際に、ひと晩中まんじりともせず気にかかっていた疑問を、フロントの従業員に尋ねてみたが、
「いえ、特には……」
と、怪訝そうな顔をされただけだった。
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