運転手さんも大変やな

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「運転手さんも大変やな」  その言葉を聞いたとき、明らかに動揺したのは私の方だった。  バスを降り、「ありがとうございました」車椅子の少女と、それを押す母親が頭を下げる。私は微笑みを返す。  着脱式の簡易スロープを乗降口のケースにしまい、運転席に戻った。「発車します」車内放送で告げて、バスのエンジンをかけ、ドアを閉める。  車内の安全確認のため、バックミラーに目をやると、先ほどあんなふうに呟いた女子大生二人は、も今の今まで自分たちの真後ろにいた車椅子の少女のことなど、すっかり忘れてしまっているかのような、軽やかな談笑だった。 「でな、そんなん、あり得なくない?」 「ありえへん、きもーい!」  身体の不自由な方、妊婦の方など、お客様の安心・安全に気を配り、それを維持し、誰もが快適にバスを利用してもらう。それが、バス運転手である自分の仕事なのだ。それが大変ではないとは言わないが、しかし、「大変やな」と同情されるようなことではない。  沸々とわいてきた怒りが、アクセルを踏む右足にこもっていることに気づき、私はあわててアクセルペダルを外した。  きっと、あの少女も好きで車椅子に乗っているわけではないのだ。右足にはめたギブスが痛々しかった。何かきっと、不慮の事故でそうなったに違いない。それなのに、同情されるのはバスの乗降を介助する運転手の方だということに、違和感があった。  それを生業とする者への同情の前に、車椅子に座らざるを得ない状況の少女を、そして少女に付き添う母親のことを、思いやるべきではないのか。  間近にいたにもかかわらず、「手伝いましょうか」の一言もなく、ただ突っ立って、「運転手さんも大変やな」の一言で終わらせてしまう女子大生は果たして、何を思っていたのだろう。 「次は、市役所前、地下鉄にお乗換えの方は、ここでお降りください」  私は車内放送をかけ、停留所にバスを寄せる。「降ります、通して」と優先席のおばあさんが立ち上がり、乗車率七〇パーセントほどの車内を進んでくる、その姿をミラー越しに見やる。そのミラーの隅に写る女子大生たちはやはり、我関せずの談笑の最中だった。 「発車します」  私はドアを閉め、ウィンカーを点灯させて停留所からバスを発進させる。 「でもな、あそこのバイト、賄が出るか解らんで」 「え、そうなん?」 「賄が出なかったら、損じゃない?」 「そうやんな、賄って大きいもんな。なっちゃんのとこ、賄なんか全然、出ないらしいで」 「なっちゃん、どこでバイトしてるん?」 「イタリアンのレストラン。店の名前、忘れた。夜になったら、めっちゃ値段上がる、ちょっと高級な店らしいで」 「そんなとこで働いてるんや。大変やな。大丈夫かな、あの子」 「大丈夫ちゃう? 強いし」  その、「強い」とはなんだ。 「大変やな」の基準とはなんだ。  賄が出るか出ないかの違いか。 「次は、裁判所前、お降りの方は――」  無意識に車内放送のセリフを発しながら、私はミラーを見て思わずぞっとしていた。  乗客のほとんどが、スマートフォンに目を落とし、手元を忙しげに動かしている。  そうだ、彼女らは少なくとも、私に対して「大変やな」と関心を持ってくれた。しかし、彼女たち以外の乗客はどうだったか。 「車内では、他のお客様のご迷惑となりますため、また、ペースメーカーなど医療機器への影響の恐れもありますため、携帯電話の電源をお切りくださいますよう、お願い申し上げます」  私の声は間違いなく車内に響き、乗客すべての鼓膜を揺らしていたはずだが、あるいは最新の電子機器は、人の思考能力を支配する機能が備わっているのかもしれない。  スマートフォンを取り出し、電源を切るそぶりを見せたのは、二人の女子大生だけだった。   
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