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手は届く距離にあるのに決して触れることができないものほどもどかしさを掻き立てるものはないと思う。目の前にある頑丈な金庫に入っている金塊とか、スーパーに売っている超高級食材とか、中学生の初恋とか。自分の求めているものがそこにあっても、それをどうにもすることができないということがわかっているっていうのは本当に焦ったい。
況してや僕はそんな状態がずっと続いているんだからもう胸が苦しいよ。彼女とさいごを過ごしたあの日からずっと。
その日も僕は、前に住んでいた街をただただ歩いていた。別にその街に特別な思い入れがあるとかっていうわけではないんだけど、強いて理由を挙げるとするなら、僕がその街しか知らなかったからだろう。面識のない街を冒険するっていうのも悪くないのかもしれないけど、なかなか気分が乗ってくれなくてね。ほら、新発売の商品が全く想像できないものって時あるだろ。好奇心とかで買う人も居るかもしれないけど、生憎僕は安全主義者だから普段通りの買い物をするんだよ。変化なんて僕の中ではいらないのかもしれない。
真っ暗な街の中、短針はもう右に傾いていて、人の気配はどこにもなかった。
僕はある場所へと行くためにしばらくの間、歩き続けることにした。遠くの街頭は昔と変わらず不規則な点滅を繰り返していた。
心地良い風が吹くたびに微かな季節の香りがするその場所は、その街で唯一僕の好きなところだった。目の前には湖が広がっていて、今は見えない遠くの山は明け方になると太陽を吐き出す。これといって見所があるわけではないんだけど、この場所に来ると心が落ち着きを感じることができた。なんでだろうね。これほど嫌な思い出のある場所は他にはないはずなのに。
昔となにも変わらない世界がそこに広がっている中、湖の手前の腰程度の高さの柵だけは、その新しさを醸し出していた。その理由を僕は知っていた。
二度見とか三度見とかって偶にすると思うんだけど、冗談抜きで僕はその時五度見くらいしたと思う。
どれくらいの時間そうしていたかわからないんだけど、湖から少し離れたところで暗い景色を何も考えずに眺めていると、後ろから足音が聞こえてきた。こんな時間に人が来ること自体珍しいのに、振り返ってみるとそこに居たのは僕が大好きだった人だった。
驚きを露わにして彼女を見ていると、彼女はまだ年季の入っていない柵に肘を置いてもたれかかった後、携帯の画面を確認した。そしてその状況が誰かを待っているということくらい普段鈍感な僕にでもわかった。ついでにその相手が僕じゃないっていうことも。
驚きと、悲しみと、憎しみと、怒り。どの感情が一番最初に込み上げてきたのかは正直わからない。でも気づいた時には目が熱くて、涙を堪えるので精一杯だった。
あれから数分後、彼女の前に一人の男が現れた。そしてその男のことを僕はよく知っていた。忘れるはずがない。
これは僕の、最期の記憶だ。
彼女との待ち合わせは、いつもこの湖だった。別に大した見所があるわけでもなく、人気はないし、手摺代わりの柵は老朽化してぼろぼろだったけど、僕達はこの場所がお気に入りだった。
約束より数分早く着いた僕は、柵に肘を置いてもたれかかりながら携帯の画面を見た。
「少し遅れるかも」というメッセージに了解の返事を返し終えると、僕は携帯をポケットにしまって、湖を眺めた。夕方の太陽が湖を赤く染めていた。
不意に、後ろから足音が聞こえた。メッセージとは裏腹に待ち合わせ時間前に彼女が来たことに疑問を抱きながらも、僕は振り返って手を振ろうとした。
だが、そこに居たのは僕の望む相手ではなく、僕の望む相手の元恋人の男だった。
そして男は、状況の整理が追いつかないまま呆然としている僕に向かって、思いっきり突進をしてきた。柵にぶつかった背中の激痛と前からの圧力に押し潰されそうになりながらも必死に抵抗していると、先に限界を迎えたのは柵の方だった。
僕の体は宙へと浮いた。男は肩を上下させてこっちを見ていた。僕は死ぬのか。そんな。嫌だ。まだ死にたくない。彼女に会いたい。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ………………………。
僕の人生はここで終わった。
思い出の場所。暗い記憶。
話すことも触れることもできなくなった僕は、彼女と僕を殺した男が会話しているのをただただ見ていることしかできなかった。本当にもどかしいし、本当に焦ったい。こんな思いをするんだったら今すぐどこかへ消えてしまいたかった。ずっと彼女の幸せを願っていたのに、いざ彼女がそれを掴むとなると、悲しさと悔しさで胸がいっぱいになった。
少しすると、男が彼女を抱きしめた。その時、男がどんなことを考えていたのかはわからない。でも、彼女の考えていることだけは、僕にはわかった。左手で拳を強く握り、右手には小型のナイフを強く握っている彼女の考えていることが。彼女にだけは、そんな経験して欲しくなかった。例え僕の復讐をすることが、彼女の幸せだったとしても。
彼女の足下には、あの日よりもずっと真っ赤な湖が広がっていた。
短針は下に、山は太陽を吐き出し、夜はすでに明けていた。
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