すごろく

1/2
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
<表>  あなたは髪を乾かしているときが、いちばん不機嫌だ。  朝の香りに包まれてドライヤーの吹く渦の中にいる、嵐のなかみたいだ、そんなふうにおもう。「HIGH 」を「OFF 」に切り替えて、轟音が止めば、どこかからピアノの音が鳴り始めた。この時間、いつもピアノを弾いている女の子がいることをわたしは知っているけれど、まだこの部屋に泊まるのがたった三回目のあなたはなにもしらない。三回。けっこうな努力によってカウントアップしたその回数を、どこか誇らしく感じる。かんたんな旋律のピアノのなか、キューティクルを整えたばかりのすこし長い髪の毛をいじるあなたの姿を、まるでチュートリアルを済ませたばかりの勇者のようだと思った。これから、あなたにとってゲームみたいな一日が始まる。 「ねえ、明日はどうする?」  どうって? と聞いたあと、あなたは続けて「ああ」と納得したような声を漏らす。 「たぶん、すこし遅くなるかもしれない。おうちにする?」 「うーん。お仕事なら、終わりの時間は読みづらいだろうし、家のほうが楽なんじゃない?」 「そうだね、その通りだと思う。悪いけどそれで」  まったく悪いとは思っていなさそうな顔であなたが笑う。もともとこのシーソー、天秤、とかくもなにかしらの、傾きは明白で、たまに「ひょっとしたらわたしだけが好きなんじゃないかしら」と思うことがある。家に泊まりにきてくれるようになってからようやく疑いはすこし晴れたけれど、やっぱりこの人はわたしのことを愛していそうなそぶりなどいっさい見せない。  そもそも。  わたしの知る三上悠馬は、すき、の感情が欠落しているようなひとだった。  こどものときからそうだった。近所では大きなほうの家に住んでいたかれは、あるていど運動ができて、しかも気が強かった。ちいさな男の子にとって、これ以上の武器があるだろうか?  意地っ張りで短気で、友達と遊ぶのが好き。親や教師のいうことに意図して逆らうようなことはなかったし、時には気まぐれで喧嘩の仲裁もやるような子どもだったから、なかなかかれは大人に評判がよかった。でも、わたしだけは知っていた――なんていうと、恋の曇りがあらわになってしまって恥ずかしいような気もするけれど、でもこれは事実だ。  かれのなかに家族愛や友情や、はたまた恋心なんてものは、いままでの観察のなかでいちどもお目にかかれたことがない。もちろんわたしにたいしてもそう。  とはいえ、他人の扱いに多少の差が見られたのは事実で、ふたりいる人間のうちどちらか一人を比較的丁重に扱い、もう一人のほうを比較的ぞんざいに扱う、その差のことを愛情と呼ぶのなら、たしかにわたしは愛されていたのだろうと思う。今もその愛は存在し続けていて、その「差分」は一度も失われたことがない。でも、そんなふうに愛情を測っていたら、いつか隕石が落ちてきてこの世界でたった二人だけになったときに、わたしはきっと世界で一番三上悠馬に嫌われている人間になるんだろう。 「昔はくれたことなかったよね」 「当たり前じゃない、付き合ってなかったし」 「いや、昔って、数年前とかじゃなくてさ。もっと前の、子どもの頃の話。くれてもよかったよね、小学校の時とか、一個でも多くもらえたらすげー嬉しかったのに」  どうせ誰かと個数の争いをしてたんだろう。そういった無邪気なところがわたしは嫌いではなかったから、すこし口元がゆるんだ。悔し涙は持っていても誰かのために泣くことなんてなさそうな、自己愛や自尊心は強くとも誰かを愛してそのことによって犠牲や努力をすることのなさそうな、さっぱりしたこの人を好きになった理由を、あんまり覚えていない。もともと人気のある人だったはずだし、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人――と、どのステージにおいてもある程度のステータスを獲得している人だった。人懐っこいし、見かけは親切で、すこし勢いがあるだけの若者に見えるし。 「で、何が欲しい? 甘いものそんなに好きじゃないよね。クッキーとか」 「チョコレート」 「え?」  ちよこれえと。と、わたしのなかで七歳の悠馬がいう。 「好きだよ、おれ。あのさ、ちょっと話変わるけど」  ドライヤーのコードを巻きながら、あなたが言う。 「おにごっことか、かけっこは勿論だけど、グリコとかすごろくみたいな、ほぼ運ゲーじゃんって感じの遊びも負けたくなくてさ」  知ってる。なんでも勝ちたいタイプだよね。ついでに言うと、「勝ちたい」よりも「負けたくない」がつよいほう。 「だからチョコレートが好きだったの。ほら、ち、よ、こ、れ、い、と。で、六マス進める。ぐ、り、こ、のグーなんて出してらんなくない?」 「まあ、わかるけど」  あまりに子どもっぽい。あまりに馬鹿っぽくて、素直にうなずくのが難しいぐらい。 「ぱ、い、な、つ、ぷ、る、はだめなの?」 「いや、いいよ。でも、パーとチョキは皆出すだろ。だから、その中ではチョキのほうが勝てる。つまり、ちよこれいとの勝ち」  あなたが、大きくふしばった指を曲げてチョキを作る。それをわたしに向けて見せるから、しかたなくわたしはパーを出す。あなたがわらう。バカみたいだと思った。 「チョキのかたちで作ってあげようか、縁起いい感じもするし」 「それ、成人男性に贈るものとしてさ、さすがに馬鹿にしてない?」  勝てるから、チョコレートが好きなあなたに、負けていてもいいのであなたがすきなのです、と伝えるのはひょっとしてものすごく難しいのかもしれない、とわたしは思う。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!