すごろく

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<裏>  すべての物事に「表」と「裏」があるとして、それがくるくると、正月の独楽みたいにあるいは月の満ち引きのように転変しつづけているとして、おれはいつでも「裏」のほうにいる人間でいたい。  *  はじめて出会ったときのことを実は覚えているよ、なんて言ったらたぶん気色わるがられるだろうけど、でも本当のことだ。おれはそもそも物忘れをしない人間なんで、ぜんぜん好きでも嫌いでもなかった小学四年の担任教師の名前と趣味と血液型を覚えている。だから小学生のころ転校していった初恋の女の子と、一度だけ同じ班になったほとんど話をしたこともない男の子とは、いま振り返る記憶のうえではおんなじような解像度でならんでいる。そんななかでもきみのことだけは、といえたら多分かっこいいけれど、残念ながらそんなこともない。 「ねえ、明日はどうする?」  どうって? と聞き返したあと、ああそうか、と思い出す。毎年楽しみにしているような、むしろうんざりしていたような。頭のなかで手帳を開くみたいに予定の確認をする。たしか企画書の締め切りがあったなと思い出す。  遅くなると言ったから家で会うことになった。最近彼女とは急速に距離が縮まり始めた――なんていうと他人行儀だけれど、恋人どうしでも結局他人みたいなまま終わる相手だっていることも考えると、たぶん相性はいいんだろう。木眞間 美悠は、たしか小学生のころからの知り合いで、中学校もクラスはいちども重ならなかったけれど選択教室だけ同じで、高校と大学は別だったけれどたまに会うことがあった、いまはおれの恋人だった。  美悠はジャガイモを刻んでいるときが、いちばん機嫌がいい。  慎重そうに、崩れないようにして、神経質そうに野菜をみつめる瞳のめんどうくささ、まばたきすれば次の瞬間には忘れそうになる印象のはかなさ、ほんとうにすべて忘れてしまいそうだ、そんなふうにおもう「薄さ」が、かえって記憶にふかく刻み込まれている。細かいことをやってられる人間の気持ちなんて分からないな、と思うからこそ、女性とはそういった生き物なんだと信じていたけれど、何人かつきあってみたことで、その認識がいかに適当なイメージングのもと生まれていたかを知った。神経質な人間は神経質だし、そうでもない人間は、やっぱり男女問わずガサツだ。全然神経質でもなんでもない人間が、潔癖なふりをしているのが多いのには驚く。 「じゃんけん、ぽんっ」  帰宅して真っ先に目に飛び込んできたチョキのチョコレート。これは、真に細かくて、神経質で、かつめんどくさい人間にしか作ることができないものだってすぐに分かった。なにせおれの指紋らしきものまで再現されていて、もちろん指紋認証できるほどじゃないけど、でもおれの手がモデルだって思ってもそれほど違和感ないぐらい。ささくれまで作ってある。  それでも、誇らしげというよりはどこか淡々とした美悠は、小学生のころから細かい作業がすきなひとだった。目の前しか見えていないような視野の狭さが、中学ぐらいまではバカらしくて、心の中ではちょっと下に見ていたところもあったかもしれない。といって、学生時代に周りのことをバカだと思ったことがないやつなんて、きっといないと思うけど。 「お返しがたいへんだな」  チョキの三倍って、なんだろう。六本の指、三本の手?  まぁ、無難にお菓子とネックレスでいっか。 「第一声で、そういうこという?」 「たしかに。ごめん、ありがとう。まさか有給とったの?」 「ううん、代休」  たいして変わらないじゃん、って笑いそうになった。美悠は、ちゃんと食べてね、といって大きなチョキの手にラップをかける。チョコレートの表面が張り付いてゆく。そのてらてらと光るふしぎな現実感。  ほんとうは、こんなひとになりたいと思う気持ちと、こんな人と一緒に暮らしたいと思う気持ちとが別な以上、なんていうか子供を作る人と育てる人とって、別であるべきなんじゃないのって思うこともある。一緒になって一人の人間になっちゃいたい相手と、一緒に暮らしたい相手とは違うのに、どっちかひとつに絞らなきゃいけない、し選ばれるのは結局一緒にいたいほう。  おれは神経質なひとになりたくないのに、神経質なひとがどうして好きなんだろう。  おにごっこで負けても、グリコで勝てなくても、まったく意に介さずわらっていられるその精神のしなやかさがおれには理解できなかった。いっそのこと大物なんじゃないか、と思う日もあれば、あんなにへらへらしてるばっかりでバカなんじゃないの、と思うこともあった。  *  初めて出会ったときにきみは百円の安い迷路雑誌に夢中になっていたんだと、そう言える日がくるのはいつだろう。  そういうふうに言ってしまっても、負けたなんて思わないぐらい、おれが勝った状態。もはや十年後ぐらいに子どもを抱きながらとか、そういうシチュエーションしか思いつけない。
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