春の良き日に

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「パパ、悪いんだけど志郎(しろう)をちょっと抱っこしてて。(はな)、もう一度トイレに行って」  落ち着いている妻の言葉に、雅文は眠そうな顔の息子を荷物ごと腕に抱え上げた。求めた母親ではない腕に、息子がぐずるしぐさを見せる。だがすぐ雅文の一番高いスーツのえりを握りしめ、大人しく胸に抱かれていた。  あせる気持ちを抑えつけ、雅文は腕時計を確認すると玄関先の母子を見た。やっと背負えたランドセルに娘が笑顔を浮かべている。フォーマルな服装でめかし込んだ二人を写真におさめておきたかったが、そんな時間はなさそうだった。  一度背負ったランドセルを下ろせと言われ、娘がしぶった。いつものように親子の間で不毛な言い争いが始まる。 「絶対に大丈夫だもん!」 「だめ、絶対に行きたくなるから。あなたはいつもそうやって……」  雅文は肩をすくめると、さわぎの中でもうとうとし始めた大物らしい息子を見た。まぶたを閉じたその顔は天使のように愛らしかったが、いったん機嫌をそこねるとどれだけ恐ろしいことになるのか、雅文は重々承知していた。  準備は整っているものの、せまる時間にあわてる気持ちがどうにも不安を呼び起こす。本番に弱いたちの自分を再び思い返しながら、息子を腕に抱いたままで雅文は荷物を確認した。 「お義母さん、何時に来るって?」  気になっていたことを妻に問いかける。 「仕事の時間に間に合うようにするとは言ってくれたけど……。最悪、お母さんが来るまで一人で二人の面倒見てね」  そろいの腕時計へ目を落とし、咲良は息子の靴を持った。雅文は思わず天井を見上げた。  娘の入学式の日でさえ自由に休暇を使えない、妻の職業がうらめしい。だがまだ非常勤の身とはいえ、学校で働く者にとっては四月は一番いそがしい時期だ。半日休みをもらえただけでもありがたいと思わなくてはならなかった。 「華はいいけど、こいつがな。半日君がいないとなると──」  腕の中にいる息子を見つめる。ついぼやきかけた情けない父親に、トイレから出た娘が答えた。 「だいじょおぶ、あたしがいるから!」  晴れ着姿でぴょんぴょんはねるもう一人にもため息をつく。再びランドセルを背負わせながら、咲良が冷静な声で答えた。 「わかってる。とりあえず今日は様子見だから、なるべく早く帰って来る。食事の予約もしてあるし」  少しほっとする情報を耳にして、雅文はうれしさを笑顔に変えた。  もちろん二人の子供は可愛い。抱っこのしすぎで腱鞘炎になるほど地道な努力もあって、子供の方も十分に自分をしたってくれている。しかし半日一人で二人の破壊力を押さえられるのか、はっきり言って自信がなかった。 「それじゃ、行ってきます」  玄関先に置かれたクマに妻が明るく声をかける。笑顔の娘も手を伸ばし、頭をなでてそれに続いた。 「行ってきます、クマさん」  咲良が華と手をつなぐ。  無事に娘の入学式を迎えた幸せを噛みしめて、雅文は家族と家を出た。
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