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1.
どうやら先に気がついたのは彼女の方だったらしい。
雅文は流れる人波の中、改札口から出て来たばかりの咲良の姿に微笑んだ。大きく瞳を見開いたまま、まわりの邪魔になっていることに気づきもせずに立ちつくしている。
「おかえり」
雅文は手を振った。人の流れをせき止めている彼女に早く来て欲しくて、わずかな距離でも縮めたかった。
背後の中年男性にぶつかり、咲良は周囲を見回した。背中に流れる黒髪がさらりと顔へふりかかる。ショルダーバッグを抱え直して彼女は波のはしによった。雅文はわずかに首をかしげた。
──そんな面倒なまねをしないで、すぐにここまで来ればいいのに。
だが、ダークグレーのスーツに包まれた華奢な体を縮ませて、咲良はその場にとどまっていた。うつむきがちの白い顔が明らかに動揺を示している。
雅文はついに耐え切れなくなり、自分から足をふみ出した。人の流れをかき分けながら彼女のもとへと歩き出す。しかし彼女は雅文を凝視し、後ずさりするように壁へ逃げた。
派手な広告がべたべたはられた掲示板に背中をついて、近づく雅文を見上げている。それはまるで小動物が警戒していた敵に見つかり、その場に立ちすくんでいるようだった。
「ごめん、遅くなって。でも、これでも精一杯急いだんだよ。早く迎えに来ようと思って……」
そこまで言ってはにかんで見せる。
「昼すぎからずっと待ってたからさ、ここの駅員に不審者とまちがわれたよ。でも『彼女にサプライズをしかけてるんです』って説明したら、逆にがんばれってはげまされた」
照れくさい思いで言葉を重ねる雅文の顔を見つめると、咲良はわずかに首を振った。ただでさえ丸く大きな瞳はこれ以上ないほど見開かれ、唇が震えているようにも見える。
「これ、持つよ」
雅文はすっと腕を伸ばし、彼女の肩から落ちそうになっているショルダーバッグを手に受けた。
不意に咲良が声を上げた。
「返して‼」
その悲鳴のような響きにまわりの視線が集まった。雅文は再び首をかしげた。
「なんでそんなに怒ってるんだ? ああ、僕が来るのが遅かったから、まだ機嫌が悪いんだろ。──君だってもうわかってるだろ? あの時のことは僕のせいじゃない。遅くなったのは謝るけど……。だから、今日はちゃんとここまで君を迎えに来たじゃないか」
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